天皇陛下への中国共産党要人の会見に関して、「天皇の政治利用」との批判が渦巻き、
それに対して、


  「憲法の精神、民主主義の精神を理解していない」
  「天皇陛下の国事行為は国民が選んだ内閣の助言と承認で行われるのが憲法の理念だ」
  「宮内庁の役人が(ルールを)作ったから金科玉条で絶対だなんてばかな話があるか」
  「どうしても反対なら辞表を提出してから言うべきだ」


との反論が、政権与党の幹事長から発せられている。
閣僚たちも、概ね、この路線に同意しているようである。

この議論は、戦後封印されていた日本国「憲法」の正体を暴露し、
また、今後の「民主党政権」の本質をさらけ出し、
また、戦後エリートたちの虚弱体質をさらすものという意味において、
非常に興味深い。


その本質を明らかにしておきたい。

なお、このエントリーでは、国内問題のみ取り上げる。
隣国は「宮内庁の慣例も鳩山改革の対象」などと述べ、内政干渉に余念がないが、
このことには触れない。


以下、文体が変わるが、おゆるしいただきたい。

日本国「憲法」体制 という病理


政権与党幹事長の発言は、日本国「憲法」体制が、本来行き着くべき当然の流れです。

あの「憲法」は、国民主権・人権主義・国権の最高機関たる国会 を宣言しています。
閉ざされた言論の中にいる日本人は、そのことの異常さを知りません。

「国民主権・人権主義・国権の最高機関である国会」というレトリックは、フランス革命のレトリックそのものです。

フランス革命に準拠している、だからいい、などと考えるのも 日本人くらいのものです。
当のフランス人たちですら、「国民主権・人権主義・国権の最高機関である国会」などということの被害に散々あって、これらは空文化させています。
人権主義は、外交には使われています。しかしながら、かの国の国内での運用は穏やかなものです。

なぜ、このようなレトリックが、「憲法」にうたわれているのかは、非常に簡単にいえば、次の理由です。

  ●米国(占領軍)は、日本を軍事的にも精神的にも徹底的に弱体化したかった
  ●日本は慣習法で動いている国である本質が分らず、狂信的な軍国主義国家であるとの先入観があった
  ●頑丈な日本人の精神文化を中和するには、日本にいた極左勢力を活気付ける必要があると判断した
  ●日本にいた極左勢力は、占領軍の力を借りて極端な改革・革命を成し遂げようと画策した
  ●日本政府は、天皇陛下の生命を人質にとられ、武装を解除され、抵抗の方法がほとんどなかった

レッドパージが起こるまで、当時のアメリカ政府中枢には、共産主義者が広く浸透していました。日本占領の企画は、そのグループがつくりましたし、保守的であったマッカーサーなどわずかな例外を除いて、GHQのスタッフ、特にGHQ民政局は共産主義者が多数を占めていました。

また、日本国内では、コミンテルンの指示に基づき、敗戦に乗じて、天皇制の廃止や共産革命などを画策していた勢力がありました。そのような勢力は、GHQが日本の解体に着手したのを見て、本性を露わにしました。宮沢俊義・我妻栄などの極左学者などです。

GHQは、日本の保守色を中和する目的で、極左学者たちは、この国を乗っ取る目的での同床異夢の連携が成立しました。

一方で、日本国政府は、完全武装解除され、抵抗のすべを奪われていました。また、マスコミを完全に統制下におかれ、言論においても抵抗できない状態でした。さらに、極東軍事裁判にからめ、天皇陛下の訴追・死刑をちらつかされ、これらの脅迫的な状況から占領統治を受け入れる以外に、独立の方法がありませんでした。

現行「憲法」は、このような不正常な状態で、日本を弱体化する、あるいは、革命を起こさせるという目的に沿った内容になっています。

「国民主権」という狂気


国民主権は、国民が数の暴力に訴える、欲望や気まぐれを権力で正当化するというイデオロギーであり、先進諸国はおろか、フランス本国ですらすでに破棄された概念です。しかし、この国ではそれがあたかも正しいかのように教育されつづけています。

国民主権を否定するというと、とんでもない極論で、右翼か軍国主義者と言う事にでもなってしまいます。

  「憲法」にも書いてあるし、教科書に書いてあって、正しい事ではないかと。
  もし万が一問題があったとしても、既に戦後60年で定着しているではないか、
  言い掛かりをつけるのはやめろと。

しかし、今は100年に一度の大不況で、しかも、明治維新以来の改革なのだといっています。
そして、最近の混乱、今後の大混乱の震源はどうやらここにありますので、少し冷静になって見るのも良いでしょう。


「主権」と言うのは恐ろしい言葉です。

  ●あらゆる事を欲しうる、命じうる、なしうる
  ●慣習も、前例も、いや、神仏も踏みにじれ
  ●あらゆるものよ ひれ伏せ

こういう絶対の権力、横暴の力を意味するのが「主権」の本来の意味です。
キリスト教の全能の神「GOD」の力を奪い、人間に与えるものです。


この「主権」が国民ひとりひとりに有る とするのが「国民主権」の意味です。

変な話です。例え、どんなことを思おうとも、やってはならぬことはありますし、命じてはならぬこともあります。古くからの良きしきたりを守ることは、ごく当然のことです。ましてや、あらゆるものが自分の奴隷であるなんて、とんでもない話なのです。

しかし、もし、人間というものは、所詮、権力亡者であったり、自分のことしか考えない我利我利亡者であったり、子供のことなんかほったらかしの鬼母であったり、あらゆる問題を他人のせいにして自らを恥じない他人事君であったりということが「本質」であり、これでいい、これしか無理だ と 見極めたとしましょう。実は、これこそ「主権」という言葉が含意している「人間のありさま」です。

ただ、常識的には、それは、本音の生き方かもしれないけれど、みんながそれに徹すれば世の中無茶苦茶になるし、第一、そんなに世の中捨てたものではない、というのが実感ではないでしょうか。

ところが、近代法というのは恐ろしいもので、上に書いた悪人の姿が「人間のありさま」だということになると、次に書いた「善人を排除する」とセットになります。積極的に、人間を悪人にしていくように、教育も法制も改められねばならない、という風になります。


冒頭の段落で述べたように、

  ●当時のアメリカ人は、日本人を軍国主義の悪人の塊だと考えていた
  ●日本の極左学者は、フランス革命を礼賛していた

という背景がありました。そして、フランス革命は、キリスト教の神がもっていた全能の力を、神から人へ、移すという革命運動でした。

「国権の最高機関たる国会」という迷妄


国民には「主権」があり、それに基づいて政治をおこなうべきだということを発展させると、

  「国民主権・人権主義・国権の最高機関である国会」

という話になってくる訳です。「人権主義」についても述べたいですが、行数が増え過ぎます。要点をいうと、「主権」の内容を、列挙したのが「人権」です。ただただ「したい」「したい」のオンパレードです。わたしは、人権が一定の役割を果たしていることを否定するものではありません。人が踏むべき道に即した「人道に関する権利」ということであれば、妥当なことと思います。しかし、「したい」をそのまま肯定し、ましてやそれを絶対視するというのは、本来の趣旨からはずれています。少なくとも「人間のありさま」に関する洞察としては、日本人の感覚と相容れません。


人間が全能の神になる。そうすると、人間はあらゆる物を作りうる、法律も、宗教も、ということになります。その直接的な表現が、

  「国権の最高機関たる国会」

です。「主権者」である国民が決めれば、それは即、絶対法規である、ということです。フランス革命においても、何度も何度も、そのような命令が発せられました。フランス国王の処刑も同様のことでした。


本来、一人一人の人間の欲望にはキリはなく、また、邪念や悪心にも際限がありません。それを慣習や前例、信仰や道徳、世間の目や親子のつながりなどで、抑制・自制するというのが人間の姿です。しかし、全能の神となってしまった人間には、抑制・自制するものなどありませんし、あってはならないのですから、「国権の最高機関たる国会」は、必ず暴走します。

戦後教育により暴走させられる「国民主権」


さて、ここに述べたような「国民主権」観というのは、違和感があるのではないでしょうか。しかしながら、大学レベルの教科書には、以上のようなことがしつこく書かれています。

公務員試験や司法試験などでは、上に述べたような「国民主権」観をもっていないと通らないように、あるいは通りにくいようになっています。占領中に学会の中枢を占めるようになった極左学者たちは、占領後もそのまま居座り、東大を牛耳り、学会を牛耳っています。そんな人たちによって、教科書はかかれ、試験が出題されているからです。

こうして、「国民主権」教の信徒たちが、政権与党や霞ヶ関の中枢に跋扈するようになりました。

一方、この「宗教」は、共産主義運動の親玉です。その結果、共産主義運動から生まれた労働運動、人権運動、平和運動なども根っこは同じです。例えば、日教組が「ゆとり教育」をいう背景にあるのも、同じ人間観です。「したいことをしたい」という人間(主権的な人間)がいて、それを肯定する、という形になっています。だから、「おしつけてはいけない」「したいことをする自由」ということになって、「ゆとり教育」万歳なのです。


すると、有権者である国民は、うっすらと「主権」の毒を宿されており、この国のエリートは、骨の髄まで、毒を食らっているということになります。

小沢発言の本性


さて、そういうことですから、

  「憲法の精神、民主主義の精神を理解していない」
  「天皇陛下の国事行為は国民が選んだ内閣の助言と承認で行われるのが憲法の理念だ」
  「宮内庁の役人が(ルールを)作ったから金科玉条で絶対だなんてばかな話があるか」
  「どうしても反対なら辞表を提出してから言うべきだ」

の意味はシンプルです。

  ●俺たちは、主権者たる国民に選ばれた、国権の最高機関たる国会の政権与党である
  ●天皇は、主権者たる国民に従え
  ●法令も慣習も踏みにじれ、主権者たる国民は万能だ
  ●役人は、主権者たる国民に従え

ということです。

本来、一人一人の人間の欲望にはキリはなく、また、邪念や悪心にも際限がありません。それを慣習や前例、信仰や道徳、世間の目や親子のつながりなどで、抑制・自制するというのが人間の姿です。しかし、全能の神となってしまった人間には、抑制・自制するものなどありませんし、あってはならないと妄想しているのです。


  ●事業仕訳のやりとりの醜さ
  ●陛下への不遜
  ●売国外交

これらの根っこは同じです。

  「封印されていた国民主権」という狂気が、暴れ出したということ。

日本国「憲法」と称する、偽りの経典 は 直ちに廃棄すべきものです。