皆さま、こんにちは。

 

 

かなり久しぶりの更新になります。

 

 

牛田くんのリサイタルツアー期間真っ最中でありながら

 

突然記事の更新がストップしたまま、という不自然な現象により

 

芽々死亡説など出ていませんでしょうか…汗

 

 

 

 

たくさんの方々からご心配のコメントやメッセージをいただきました。

 

 

まずは、私のことを心配してくださっこと

 

私の体調を案じてくださったことに

 

深く感謝を申し上げます。

 

 

そして、ご心配をおかけして、ごめんなさい。

 

m(_ _)m

 

 

 

 

 

 

 

どこから書こう。

 

どこまで書こう。

 

正直、思い悩みましたが

 

 

今までも、このブログに

 

良い事も 悪いことも 自分なりに正直に書いてきました。

 

 

なので、今回も書ける範囲で書いてみようと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「実家が燃えている。」

 

 

 

その知らせを受けたのは

 

金沢から東京に帰る新幹線の中でした。

 

 

 

牛田くんのリサイタルの後、昨年訪れたおじさんのお店に行きました。

 

元旦の地震以来、とても心配していたので

 

お店やマスター・奥さんの無事を確認して安心し

 

地震当日の話も聞かせてもらって

 

ファン友さん達と一緒に、今回も食べきれないほどの素晴らしい料理をご馳走になりました。

 

 

その日のうちに帰らなければならなかったファン友さん達は一足先に帰り

 

私は一人お店に残って、日本酒を頂いたり

 

マスターや奥さんとおしゃべりしたり

 

あとからやってきた若い二人連れの女性客とお話ししたり

 

お土産に持ってきた、ダルマをお腹に抱えた招き猫を持ったマスターと奥さんと一緒に写真を何枚も撮ったりして

 

「SNSで必ずこのお店の素晴らしさを伝えるから、頑張ってね!」

 

と、固い握手を交わして別れ、ホテルに帰りました。

 

 

 

 

 

 

 

そんな前日の余韻に浸りながら乗った新幹線の中で受けた突然の知らせは、全く現実味がなく

 

訳が分からないまま、急遽長野で乗り換えて、実家の方に行き先を変えました。

 

 

 

 

駅まで迎えに来てくれた従姉妹の車で、まず向かったのは警察署でした。

 

 

 

 

逃げ遅れた姉が焼死したらしい、というのを、そこで知りました。

 

助けようとした母も火傷を負い、病院に搬送されたとのこと。

 

 

 

8台もの消防車が消火にあたり

 

約1時間20分後に鎮火したという実家には

 

まだたくさんの車両や人が集まっていて

 

警察、消防の方から状況を簡単に聞きました。

 

 

 

 

病院で手当を受けた母が警察車両の中にいる、と聞いて

 

急いで会いに行ったら

 

両手を包帯でぐるぐる巻かれ

 

顔もガーゼだらけで

 

髪はチリチリに焼け焦げていました。

 

 

私の顔を見て、「ああ、よかった。○○ちゃん(私)が来てくれた。」

 

と放心したように言う母は、幼い子供のようでした。

 

 

 

 

 

 

姉はDNA鑑定が必要なほど焼けてしまったそうで

 

会うことが出来ませんでした。

 

私も、綺麗なままの姉を憶えていたかったし

 

会うのが怖かった。

 

 

 

母と二人、もう一度警察に戻り

 

再度経緯を確認した後、母の頬の内側からDNA鑑定のための組織を採取しました。

 

会えないうちにさらに老いてしまったのか 今回のショックによるものなのか

 

母は歩くのにも支えが必要で、常に私の手や腕をぎゅっと強く握っていました。

 

 

 

家は、かろうじて外側の壁や屋根が残ってはいるものの

 

部分的に激しく焼け焦げており

 

外から窓を割って入ったときのガラスが散乱し

 

放水で水浸し、どこも煤(すす)だらけで

 

もう二度と住むことは出来ない状態でした。

 

 

 

 

 

 

その日から数日間、私の大好きな松本の叔母の家に母と二人で身を寄せました。

 

 

突然のことに驚き嘆きながらも

 

叔母は、温かいご飯を作り、布団を出して

 

精一杯のおもてなしをしてくれました。

 

朗らかで精神の安定した叔母に、どれだけ救われたか分かりません。

 

 

 

翌日、ジャックが仕事を休んで、スタッドレスの車をレンタカーで借りて、やってきてくれました。

 

この3月、会社が統合して、ものすごく忙しいのを知っていただけに、申し訳なかったけれど

 

冷静にテキパキとことを進めてくれるジャックの存在は本当にありがたかったです。

 

 

 

 

病院、警察、遺体の引き取りと引き渡し、葬儀会社との打ち合わせ…

 

やることが山のようにありました。

 

 

予報通り雪が降り、どんどん激しくなって車が進まなくなりました。

 

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車の屋根の上に降り積もった雪が、ドサッとまとまって何度もフロントグラスに落ちてきて

 

前が全く見えなくなってしまうので

 

その都度、側道に車を停めて、素手で雪を払いました。

 

 

 

寒さと疲れのせいか

 

喉や頭や目の奥が痛くなり、そのうち鼻水や咳が出てきたけれど

 

自分の体調のことなんて、とても気にしていられませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

牛田くんのデビュー記念日の3月14日

 

ひっそりと身内で姉の火葬を行いました。

 

私が喪主を務めました。

 

 

母も私も、喪服など用意できなくて

 

母は、火事当日に警察で着替えとして貸してもらった黒のスウェット上下

 

私は、牛田くんのリサイタルに行った時の服のままでした。

 

 

骨になった姉の姿を見るときも拾うときも、敢えて感情に蓋をしました。

 

きっと亡くなる時にもっと熱くて辛い思いをしたでしょう。

 

だからむしろ、「よかったね。綺麗になったね」と。

 

 

 

とても恥ずかしい話ですが

 

姉・母と折り合いが悪かった妹は、火葬に来ませんでした。

 

 

 

 

 

母を毎日病院に連れて行きました。

 

 

担当の先生によると、「とにかくゆっくり休ませてください。ストレスをかけないように。」

 

火傷はストレスなどで治りが悪くなると、ひきつれやケロイドなどの症状が残り

 

炎を見た人は、潜在的なショックが大きくPTSDになりやすいのだそうです。

 

 

幸いにも、火事当時に母がかけていたメガネが、母の目と、目の周りの薄い皮膚を守ってくれたそうです。

 

 

 

先生から薬の塗り方、包帯の取り替え方を教わって

 

毎晩、母の傷の手当てをしました。

 

父と母の結婚記念日には、ケーキを買って

 

叔母と3人、少し華やいだ雰囲気でケーキを食べました。

 

 

 

 

そのうちに私の咳が酷くなり

 

高齢の母や叔母にうつしては大変なので

 

姉の火葬を終えてから、一度1人で東京に戻りました。

 

 

 

冗談のような話ですが

 

このタイミングで、信頼していた友人の金銭トラブルに巻き込まれ

 

私は、友人に預けていた大切なお金を失いました。

 

 

「実家が燃えている。」

 

「お金が返せなくなった。」

 

信じられないことに、この2つの知らせの電話を、同じ新幹線の中で受けたんですよ。

 

 

 

 

 

 

久しぶりに東京の家に戻ったとき

 

青い花瓶に活けたミモザの花の一部が、まだ元気に咲いていて嬉しかったのを憶えています。

 

 

 

 

 

けれど、私が東京に戻ってきた翌日

 

母が熱を出して近くの病院に搬送されたという知らせが入りました。

 

コロナの陽性反応が出て、隔離病棟に入院しているとのこと。

 

 

私も近所の医院を受診してコロナの検査をしたら、陽性反応でした。

 

ジャックは陰性だったのですが、風邪なのか疲れなのか熱を出して

 

2人とも寝込んでしまいました。

 

 

 

 

が、

 

姉の死後の処理

 

母の今後の身の振り方

 

住めなくなった家の処分

 

 

すべて私が窓口になっているため

 

毎日のようにあちこちから連絡が入ります。

 

多いときには電話してる途中に2人、3人、とかかってきます。

 

 

 

 

咳がなかなか止まらなくて

 

そのうち咳をする度に左下のあばらが痛くなり

 

それが何日も続いているので、もしかしたら咳のしすぎで肋骨にひびが入ったのかもしれませんえーん

 

 

 

 

 

 

左脳(理論、理性、計画性)よりも右脳(感情、感性)が日頃活発に動いているらしい私ですが

 

今はとにかく一端感情を脇に置いて、目の前のことをひとつひとつこなしています。

 

 

 

3月が一番忙しく、辞める人も何人かいるというのに、職場に大迷惑をかけてしまいました。

 

にもかかわらず、同僚達があたたかな理解を示してくれて、4月上旬まで休ませてもらえることになりました。

 

 

 

母のことは、ジャックも娘も「一緒に住んでいいよ。」と言ってくれました。

 

けれど、当の母親が、「東京には行きたくない」ということで、病院の相談員さんとも話し合って

 

実家の近くの施設を探していこうと思っています。

 

明日、介護認定の面接をしてもらいます。

 

 

 

 

 

先日、久しぶりに病院で会った母は

 

看護師さんに車椅子を押されて登場しました。

 

 

顔の火傷はかなり綺麗になり

 

チリチリに焼け焦げた髪も綺麗に整って、手の包帯もはずれていました。

 

 

でも、意志を持たない抜け殻のようでした。

 

 

私を見て、とても嬉しそうだったので

 

若い看護師さんが「本当は面会は10分だけと決まっているけれど」と

 

2人で1時間ほど過ごす時間をくれました。

 

 

ありがとう、看護師さん。

 

母を大切にしてくれて。

 

優しくしてくれて。

 

 

 

 

母は火事の時の記憶が部分的に抜けています。

 

それでいいと私は思います。

 

 

でも、会わないうちに認知症もかなり進んでいて

 

昨日話したことも、さっき話したことも忘れていたりします。

 

 

今までも、時々電話をしていたけれど「元気だよ。心配しないで。」と繰り返していた母の声から

 

私は気付くことが出来ませんでした。

 

 

 

 

母のために、一番簡単な高齢者用のスマホを契約して持って行きました。

 

短縮ダイヤルのボタンを押して、毎日私に電話をしてきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今、私は、東京と長野を行ったり来たりしています。

 

 

 

役所や銀行、その他自治体や保険会社等とのやり取りがたくさんありすぎて

 

田舎ではタクシーもなかなかつかまらず

 

土砂降りの中を何十分も歩いて移動して

 

途方もない量の書類を書き込んだり、手続きを踏んで

 

家やホテルに帰るとどっと疲れが出て

 

「過労死しちゃうかも。」なんて思った日も何度かありました。

 

 

 

 

 

松本の叔母や従兄や親戚の人達、母の妹や従姉妹達が力を貸してくれています。

 

ジャックの妹達が母の衣類や下着を買って送ってくれたり、寝込んで動けない私達に食料を届けてくれたり。

 

実家の近所の民生委員の年配の男性も、とても親身に相談に乗ってくださいます。

 

電話を切るとき「頑張れ!頑張れ!」と何度も力を込めて励ましてくださいました。

 

 

 

人間の優しさや温かさに触れた反面

 

醜い部分、嫌な部分を目の当たりにすることもありました。

 

 

 

 

 

こういう時に泣けるのは 

 

涙が出るのは

 

今の私に言わせると、余裕があるからだと思います。

 

 

 

 

 

おかしなことを書きますが

 

 

実家の3姉妹の次女として生まれた私は

 

なぜかいつも、自分はこの家の長男だ、というような感覚がありました。

 

子供の頃から潤滑油的な役割を担ってきました。

 

 

なぜかご先祖様から「頼むね。」「この家をまとめてね。」と託されてきたような気がして仕方ないんです。

 

 

 

今回のこのような大変なことを引き受けられるのは私しかいない。

 

そのことを、心のとても深い部分で昔から覚悟していたような気がします。

 

 

人それぞれ、人生の中で

 

「無理してでも頑張らなければならない」

 

そんな時が一度や二度あるのではないかと思います。

 

 

 

 

 

なので今は「悲しみ」「淋しさ」「後悔」「怒り」「思い出」

 

そんな感情を、切り離して前へ進んでいこうと思っています。

 

目の前の一つ一つを、淡々とこなしていきます。

 

 

 

 

ご心配のコメントやメッセージをくださった方々、ありがとうございます。

 

返信出来てなくてごめんなさい。

 

この記事をもって返信に代えさせてください。

 

 

 

今回は、こちらの記事のコメント欄を閉じさせていただきます。

 

私のブログを読んで下さっている方は、とても優しい方が多いので

 

きっと優しいコメントや励ましのお言葉をくださると思います。

 

 

でも、今、まだ泣くわけにいきません。

 

もう少し踏ん張らないと…。

 

 

個人的なメッセージ等も、どうぞ今はお控えくださいm(_ _)m

 

 

 

 

 

 

行く予定でチケットを買っていた牛田くんのリサイタル

 

郡山、仙台、豊田、オペラシティ、大阪、高知

 

行くことが出来ませんでした。

 

 

会場に思いを馳せながら

 

「もし行けたとしても、こんなに咳が出ちゃうから無理だったな…。」

 

なんて、自分を慰めたりしてました。

 

 

でも、「今頃クライスレリアーナかな?アンコールは何かな?」などと、リサイタルの成功をいつも祈ってました。

 

今回のプログラム曲について勉強したノートは、途中から役所の手続きや病院との打ち合わせを記録するノートに変わりました。

 

 

 

デビュー記念のお祝いの記事も下書きまで書いていたのですが

 

このような理由で投稿することが出来ませんでした。

 

 

ご心配のコメント等をいただきながらも

 

デビュー12周年記念の祝賀ムードに水を差したくなくて

 

最後の演奏会が終わるまでは、と思っていました。

 

 

無事に最後まで完走しましたね、牛田くん。

 

きっとさらなる進化を遂げて、素晴らしい演奏だったことと思います。

 

 

 

今回私はそれを見届けることは出来なかったけれど

 

今まで聴いた牛田くんのピアノと牛田くんの存在に何度も支えてもらいました。

 

 

 

 

牛田くん情報も、発信するどころかほとんど追えていません汗

 

私のレポ記事やコンサート情報を楽しみにしてくださっていた方、ごめんなさいm(_ _)m

 

 

 

もうすぐリーズ国際コンクールが始まりますが

 

私は明日からまた長野に戻り

 

姉の納骨や、諸々の手続き、焼け残った家の片付けなどをして参ります。

 

 

 

 

 

牛田くんのファンをやめるつもりも

 

ブログをやめるつもりもありません(^^)

 

 

今までとは少し違う内容になってしまうかもしれませんが

 

また、ここで書かせていただきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最後に

 

皆さまにお伝えしたいことがあります。

 

 

 

したいことがあったら、迷わずどんどん行動してください。

 

行きたいところがあったら、思い切って行ってください。

 

 

 

人生、いつどうなるか分かりません。

 

後悔しないようにね。

 

 

私、まったく後悔してないですよ照れ

 

 

 

 

 

あと、どうぞ私の分も

 

コンクールの牛田くんを応援してくださいね。

 

 

 

 

 

私も、次に牛田くんの演奏を聴ける日を楽しみに頑張ります。

 

 

 

 

感謝をこめて。

 

 

 

 

芽々