父が他界しました。
父がもう長くないという姉からの知らせを
私は仕事の休憩時間に手にしたスマホのLINEで知りました。
今回は 個人的な内容につき
自分語り…いや、家族語りになります。
ご興味のある方だけ お付き合いください。
父のこと 父を見送ったことを
記録として残しておきたいと思うけれど
パソコンの前で画面を眺めながら
頭の中でうまくまとめることができません。
きっと まとまりのない変な記事になると思います。
私達3姉妹は 見合い結婚した両親の間に
3回の流産ののちに生まれた子供だそうす。
結婚7年目に やっと無事に姉が誕生したときは
父は それはそれは喜んで
文字通り「目に入れても痛くない」くらい姉のことを可愛がったそうです。
高校の国語の教師をしていた父のことを語るとき
みんな口を揃えて
「真面目な人」
と言います。
「誠実」という どこか柔らかなニュアンスよりも
「生真面目」「堅物」
という言い方をされることの多い人でした。
不器用で 口下手で 融通が利かなくて
畑仕事が好きで 家庭菜園とはとても思えないほど立派な野菜や果物を作りました。
実際 教員よりも農家や職人の方が向いていたのではないかと思うくらい
人付き合いが苦手な人でした。
文章を書いたり 短歌を作ることも好きで
私が小さい頃は よく小説もどきを書いてどこかに投稿し
定年後は 短歌の講師や短歌雑誌の編集・添削などをしていました。
親と子供って 相性があると思うのですが
子供の頃の私と父の相性は あまり良かったとは言えません。
父は婿養子で 母の母である祖母と同居をしていましたが
食事の時などに父が時々祖母に向ける冷たい視線や不穏な空気。
おばあちゃんっ子だった私は そんな空気を感じ取る度に
精一杯の抗議のつもりで父を睨み付けました。
今でこそ 様々な大人の事情もあったのだろうと思いますが
当時の私には そこまでの想像力も人生経験もなく
きっと父にとっては可愛くない子供だったと思います。
父は 私達に絵本をたくさん買ってくれました。
姉妹共用の本もありましたが
月に一度くらいの割合で
今日は姉 その次は私… というふうに
それぞれの年齢に合った本を
一人ずつ順番に買ってきました。
学校から帰った父が 黒い鞄から本の入った紙袋を取り出す時は
いつも本当にワクワクしました。
私が生まれて初めて買ってもらった自分だけの本は
今では絶版になってしまった 赤い表紙の『ちびくろさんぼ』。
この絵本は、今でも私にとって特別な一冊です。
外では生真面目で堅物の父でしたが
家の中では悪戯っ子のように無邪気なユーモアの持ち主で
私達姉妹は 子供同士のような親しみを父に感じていました。
お砂糖を入れた麦茶を 蓋付きのプラスチック容器に入れて
シャカシャカ振って泡立てた
「子供ビール」なるものを作ってくれたり
黒い画用紙を足の裏の形に何枚も切り抜いて
玄関から家の中にペタペタと並べ
家族や訪ねてきた近所の人を仰天させたり
(一瞬 泥棒の足跡みたいに見えたようです)
白いシャワーキャップをかぶって
赤ちゃんごっこの赤ちゃん役を演じたり…。
思春期と共に 私達は順々に反抗期を迎えましたが
中でも一番父とぶつかったのはおそらく私だったと思います。
ある夜、父と大喧嘩をした私は
父に向かって ある一言を放ちました。
教員である父の仕事に関することです。
勢いに任せて 口から飛び出した言葉だったのですが
なんと しばらく絶句していた父が泣き出したのです。
それまで怒鳴っていた父は赤い目をして言いました。
「今 お父さんの心から 真っ赤な血が流れてる。
もちろん そんなことはしないけど
もしも今ナイフを持ってたら
○○(私)の心臓を刺したいくらい
そのくらい 悲しくて悔しいよ」
大人の事情を知らずに
深い意味もなく言ってしまった言葉が
どれだけ父のプライドを傷つけてしまったのかが分かったのは
それから何年か経って大人になってから。
子供だった自分の残酷さと 父の繊細さを思うと
今でも胸がジクジクと痛みます。
その時のことを、父も覚えていたんだと分かったことが書いてある記事
大学で教職を取り 卒業後は地元に帰って教員になる。
そんな約束で東京の大学に行かせてもらった私は
約束通り教員の資格を取ったものの
親に黙って勝手に就職活動をして 都内の企業に就職しました。
とんでもない親不孝者です。
私が実家を離れた頃から
父との関係が良くなりました。
それまで上から押しつけるだけだった父が
一歩距離を取って 私を認めてくれるようになった気がしました。
私も 以前より広い視野で
父の立場や気持ちを考えることが出来るようになったのかもしれません。
あの頃はまったく気付いてなかったけれど
今思えば 思春期の父への強い反発は
近親憎悪もあったのかもしれません。
もしかしたら父も 同じではなかったのかな なんて思います。
一番反発していた私は
本当は一番父に似ていた気がします。
大学4年の時 こんなこともありました。
バイトと仕送りギリギリで暮らしていた貧乏学生だった私は
卒業旅行に友人達と行くスキー旅行のお金がなくて
こっそり父に電話で相談しました。
父は
「お母さんには内緒だよ」
と言って
自分の眼鏡を買うために貯めていたお金を辞書の間に挟み
私のアパートに遊びに来るために上京してくる母に持たせてくれました。
婿養子だったからでしょうか。
我が家ではいつも 母の方が強くて発言力がありました。
おとなしく 欲がなく まめで働き者だった父。
そんな父が悪性リンパ腫で余命3ケ月と診断されたのは
確か私が結婚した翌年だったと思います。
仕事をしながら東京で暮らしている私には
祈るくらいのことし出来ませんでした。
道端の花
夜空の星
七夕の短冊
目につく限り 思いつく限りのものに祈りました。
宛名に東京の私の住所を書いた30枚ほどのはがきを
「なんでもいいから書いて送って」
と 父に渡しました。
向田邦子さんのエッセイで読んだ
疎開した妹さんに お父様がしたことを
覚えていたからかもしれません。
父からは まめにはがきが届きました。
「髪が抜けた」
「抗がん剤投与の後 吐き気がした」
闘病の記録のような内容の
黒いボールペンの文字が縦にはがきに並んでいました。
父は入院 通院を経て すっかり健康を取り戻し
80代で腰を傷めて施設に入るまで
仕事も畑仕事も元気に続けていました。
コロナで帰れなくなってしまう前の2019年の秋が
父と会った最後です。
父が長くないだろうという姉からの連絡を受けても
私はすぐに実家に帰ることが出来ませんでした。
今でも田舎では東京からの移動者を警戒しているようでしたし
最初のワクチン接種で体調を崩して約2ヶ月寝込んだ母は
2回目以降の接種を受けておらず
すっかり体力が弱って寝たり起きたりを繰り返しているとのこと。
翌日の午後 妹が病室からLINEビデオで父と繋いでくれました。
画面に映った父のアップを見た時の衝撃を
忘れることが出来ません。
痩せこけて 痛々しいほど頬骨が浮き上がり
鼻に酸素のチューブを通し
半開きの口がガクガクと震えていました。
「お父さん ○○(私)だよ。」
母や妹が父に呼びかけました。
「お父さん お父さん!
分かる?私だよ。
会いに行けなくてごめんね。
ありがとう。ありがとう。
頑張ったね。
ありがとう お父さん」
閉じかけた瞼の黒目がこちらを見つめ
微かにコクリと頷いたのが分かりました。
骸骨のような父の頭を
静かに撫でる皺だらけの母の手が映りました。
その夜 父は息を引き取りました。
老衰。
90歳でした。


