3月11日。
日本に暮らす私たちにとって、忘れることの出来ない日付です。
9年前のあの日、皆さまはどのように過ごされてましたか?
私はあの日、午後1時までのお総菜屋さんでのアルバイトを終えて
家で1人 遅めのお昼ご飯を食べ終わったところでした。
ドラマ『金八先生』の再放送を見ながら
みかんを食べてました。
突然、ガタガタという揺れを感じました。
「来たな。地震だな。」
と、思いつつ、テレビを見続けてました。
でも、なかなか揺れが収まらない。
食べかけのみかんを持ったまま(;^ω^)
ダイニングのテーブルの下に避難して
それでもみかんを食べ続け
金八先生の続きを見てました。
揺れはいっこうに収まらず
棚に飾った写真立てや本が落下し、
壁に立てかけた大きな絵が倒れました。
ガタガタガタ… ガチャン!ガチャン!
と言う音が、家のあちこちから聞こえました。
マンション全体がいつまでも激しく横揺れを続け
なすすべもなく揺られ続けているうちに
船酔いのように気分が悪くなってきました。
金八先生の画面が切り替わり
逼迫した表情のアナウンサーが映りました。
娘を迎えに行かなくては!
大急ぎで自転車に乗って
当時小学校1年生の娘を迎えに行きました。
校庭には銀色の防災頭巾を被った子供たちの姿。
学童の建物に迎えに行くと、
なんと、私の姿を見た娘
「シッ!シッ!」
と、私を追い払う仕草をしたんですよ。
当時の娘は、私といるところをお友達に見られるのを
なぜかとても恥ずかしがってたんです。
娘の帰り支度を待つ間、立っていられないほどの余震がやってきました。
とんがった防災頭巾の上に、黄色い帽子を乗せた娘を自転車に乗せて
「さっきのあの態度は何?
」
と、怒りながら家に向かったのを覚えています。
その日は娘のピアノ教室がある日で
家から30メートルと離れていない先生のお宅に
防災頭巾&黄色い帽子の娘の手を引いて
いつも通りうかがいました。
「え?レッスンにいらしたんですね(^▽^;)
さっきからキャンセルの電話が相次いでるのによく来てくださいました。」
とても優しい先生は 普通にレッスンをしてくださいました。
今思い出すと、自分の危機感のなさ、非常識さに呆れます。
レッスンが終わって家に戻ると、マンションの友人から留守番電話が入っていました。
高輪の友人宅に遊びに来たけれど、電車がストップして帰れなくなってしまった。
申し訳ないけれど、我が子をお願いします、と。
中学生の男の子と、3年生の女の子の兄妹を迎えに行き
4人で身を寄せ合うようにして一緒にテレビを見ました。
最初は都内で1人死者が出た、と報道していたテレビが映し出したのは
とても信じられない光景でした。
猛り狂う波が、家を、車を次々と呑み込んでいます。
なんということ!
こんなにたくさんの家や車が呑み込まれて
人だけが助かっているとはとても思えない…。
やっと連絡がついたジャックも、今日は帰れそうにないとのことでした。
子供たちに衝撃的な映像を見せるのに罪悪感を感じて
テレビを消してみんなで夕ご飯を食べました。
しょっちゅう互いの家に呼び合って家飲みをしていたので、
前から私の作る料理が大好き、と言ってくれていた兄妹は
この日も私の料理を喜んでくれて
お友達と一緒に夜を過ごせる娘も楽しそうでした。
子供たちの無邪気さに救われました。
と、同時に、
何かあったら私がこの子たちを守らなければ…。
自分が大人であることを、あらためて実感しました。
その後の連日の報道で知った想像を絶する被害の酷さに
胸が潰れる思いをしたのは 皆さん一緒だと思います。
一瞬ですべてを失った人たち…。
見たこともないような光景…。
爆発した原子力発電所…。
お店からはあらゆるものが姿を消し
電気を落としている店や公共施設はどこも暗く
テレビをつけるたびに目に飛び込んでくる惨状と
ACジャパンのCMや地震警報の不安をあおる音。
日本中が絶望と不安という重い幕に覆われていたあの頃…。
気になった人がいました。
私が中学1年生の頃、雑誌の文通コーナーで知り合い
ずっと交流を続けてきた宮城県に住む同じ年のペンフレンドです。
学生時代は3日とあけずに彼女からの手紙が届き
憧れの先輩の卒業式で第2ボタンをもらった日に初めて電話で話し、
社会人になった年の春、研修で上京した彼女が私の家に泊まりに来てくれました。
互いの結婚式にも出席し合った大切な友人。
時代が進んで、メールやラインが出来ても
文明の利器には頼らずに手紙で連絡を取る、というのが
なぜか彼女と私の暗黙のルールでした。
彼女の安否が気になって、さっそく電話をしてみたけれど
なかなか電話がつながらず
やっと彼女の無事を確認できたのは、2日後のことでした。
ガスも電気も水道も止まっているけれど
家族全員無事だと聞いて、心底ホッとしました。
毎日テレビの報道で、現地の様子を見てきた私たちと違って
テレビを見れない当事者の方達が
状況を全く把握できていないということに驚きました。
彼女と彼女のご家族に届けたくて
品薄になっているスーパーを何軒も周り
段ボールに詰めました。
やっと手に入れた箱のないティッシュペーパーや
うどんの乾麺や、かりんとうや…。
当時の東京のお店も本当に品薄だったので
欲しかったものは、何一つ買えなかったけれど。
私が手紙を書いていたら、
娘も私の隣で彼女と息子さん達に手紙を書いてくれました。
宅急便に持って行ったところ
「今、そちらの地域への交通が遮断されていて配達が出来ない状態です。」
と。
ヘタヘタと体の力が抜けてしまい
「一番届けたい人たちに、届けることが出来ないんですか?」
と、涙目で訴える私に 申し訳なさそうに謝ってくれた若い配達員さん。
あの時の彼も、本当にもどかしく辛い思いをされていたんだと
今頃になって胸が痛みます。
一体自分に何が出来るんだろう…。
あの時、日本中の人達一人一人が
きっと自分に問いかけていたと思います。
そして、自分の無力さを実感していたのではないでしょうか。
1週間ほどして、やっと荷物が送れました。
彼女から電話がかかってきたのは、ずいぶんあとでした。
「嬉しくて嬉しくて、本当はすぐに電話したかったけど、
あのときあなたの声を聞いたら、絶対泣いちゃうと思ったから…。」
さらに何日かたったある日、
彼女から小さな箱が届きました。
お菓子と、娘と私、それぞれに宛てて書かれたお礼の手紙でした。
綴られていたのは、震災で大変な思いをしたことよりも
私や、自衛隊の人達、ボランティアに来てくれている人たちへの感謝の想い。
それから、当時小学生と中学生だった息子さん達に
敢えて被災地の惨状を見せに連れて行き
「しっかり見ておきなさい。自分たちの出来ることを考えなさい。」
と伝えたと書いてありました。
数か月後、キーホルダーが同封された手紙が届きました。
魚をかたどった木製のキーホルダー。
震災で仕事を失った漁師さん達が、
漁業の再開資金を募るために
家具職人を招いて、ひとつひとつ手作りしたものだそうです。
すっかり年季が入ったけれど、今もお守り代わりに毎日使っています。
彼女とは毎年、年賀状のやり取りをしています。
当時中学生だった上の息子さんは
昨年社会人になったそうです。
ブログを始めて6年。
阪神大震災の日も
東日本大震災の日も
何度も通り過ぎてきたけれど
これらのことについて一度も触れたことはありません。
私が被災者の方達に想いを寄せて
涙を流しても 感傷的な文章を書いたとしても
実際に被災した方達と同じ痛みを感じる事なんて
絶対出来ません。
そして、多分、この時期が来るたびに
とってもずるいと思うけど
私は多分怖かった。
大きな痛みを経験し
今も癒えきれない傷を抱えている人たちのことを考えるのが辛いから。
相変わらず自分の無力さを実感するのが悲しいから。
2020年3月11日。
今日私、お仕事がお休みです。
朝起きて、今日一日をどう過ごそうか考えました。
今日はあのときのあの人たちに、
今の東北の現状に
しっかり目を向けよう。
コロナ一色の今の世の中だけど
新聞でも、テレビでも、ちゃんと震災のことは取り上げられていました。
咲き誇る桜の大きな写真と「春へ一歩ずつ。」という言葉。
今もなお、全国に散らばる避難者が4万7千人もいるという事実。
福島産の食品の放射線物質検査が縮小されるという話。
当時、避難所で、幼い息子に、「お母さんを助けて頑張りや。」
と、ポケットから出したキャラメルをくれた消防士。
何年もかけてその消防士を探し当て、お礼を伝えた、という話。
テレビをつけたら、特集をしていました。
津波で妻、息子夫婦、孫の4人を亡くし
家族でたった一人生き残った男性。
「仏さんをちゃんと置いてあげるために家を建て直す。」
そう誓って、76歳になった今年の春、とうとう新しい家が完成するそうです。
「本当の苦しみが終わるのは、自分が死ぬとき。」
と、彼は言っていました。
津波に呑み込まれた大切な一人娘を
ずっと探し続けて、8年7ケ月ぶりに遺骨を手にすることが出来たご夫婦。
「せめて遺骨が帰ってくれば嬉しくなると思っていたけれど、
亡くなったという事実はやっぱり変わらない。」
この心優しい人たちが、一体何をしたというのでしょう。
何故生き残ったのが自分だったのか
何故あのときもっと優しくしてあげなかったのか
様々な後悔や罪悪感を
数えきれないほど経験して今日に辿り着いているのでしょう。
眠れない夜を
食べ物が喉を通らない日々を
どれだけ重ねてきたのでしょう。
9年という月日が経って
建物や町並みは、少しずつ元に戻っているかもしれない。
お店の電気も明るくなり、テレビでも楽しい番組をやっている。
目に見えるものは元に戻っても
大切な人を亡くしたという悲しみは完全に無くなったりはしないでしょう。
久しぶりにあのときのペンフレンドの手紙を出してきて読みました。
今日は朝から涙腺がおかしくなりそう。
うん、分かってる。
こんなに泣くのがいやだった。
胸が痛くなるのがいやだった。
完全に寄り添いきれないのに、自分を偽善者のように感じてしまうから。
今日はあたたかくていい天気。
今から外に出よう。
あの日、天国に行ったたくさんの人達。
あなたたちが天国で穏やかで幸福でいますように。
そして、頑張って生きているあなたの大切な人達を
どうぞずっと見守ってあげてください。
久しぶりに手紙を読んだら、ペンフレンドの声が聴きたくなりました。
今夜、9年ぶりに電話をしてみようと思います。
今度は私の方が泣いてしまうかも。
あの日から9年。
ちっぽけな私には、たいそうなことは出来ないけど
当たり前だと思っていた毎日が本当は奇跡なんだってこと、
一緒に年を重ねていける大切な家族がいること。
この心震えるような喜びに感謝して
家族のためにおいしいご飯を作りたい。
そして、祈りたい。
さくっと書くつもりが、こんなに長い記事に…。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
大切な皆さまが、ずっとずっと護られていますように。
「花は咲く」



