日本馬匹輸送自動車株式会社
ヒカルイマイ号

・シャシ(車体) /  フロント

いすゞ 2代目ギガ

・架装

東京特殊車体(株)

・年式(運用開始)

2019年

・登録番号(車両ナンバー)

土浦100

き 12-16

・車の特徴

側面スライドドアが無いタイプの厩舎スタッフ募集ラッピング対象車です。


ヒカルイマイ(1968〜1992)
栗東 谷八郎厩舎  牡馬 黒鹿毛
父 シプリアニ 母 セイシュン
(母父 ヴィーノーピュロー)

・主な勝ち鞍
きさらぎ賞(1971)
皐月賞(1971)
NHK杯(1971)
東京優駿(1971)

後にダービー馬ともなったヒカルイマイ号の生まれは貧しい農家であり、まともな馴致が行われなかったが故に気性が荒い性格になった。
また、父親も当時無名 母系に至っては血統不明であり同馬はサラブレッドと認められていないサラ系馬である。

こうした事もありセリでは全く売れず廃用となる寸前に、買い取る者が現れ無事に競走馬となる。

同馬の調教は困難を極めたが低評価で望んだデビュー戦で見事な末脚を見せ初勝利。
続けざまに三連勝、そしてきさらぎ賞を制した事によってクラシック候補に名乗り出た。

序盤でも書いた通り、この馬は気性が荒く馬群に入るとやる気を失う性格という事もあり鞍上の田島騎手は後方待機を型とした。
皐月賞では4番人気ながらも直線で先行馬を交わし優勝。次走はダービー直行ではなくNHK杯を選択。
NHK杯では優勝したものの早めに動いた事が仇となり苦戦を強いられた。
日本ダービーは28頭のフルゲート、2番人気14番枠での出走。追い込み馬には有利とは言えないスローペースとなったが、最後の直線で20頭以上を追い抜かし怒涛の追い込みで見事に勝利を飾る。
しかし、秋は体調を崩して凡走。
菊花賞を目前に控えた中、屈腱炎を発症。
引退となった。

引退後、サラ系であるが故に種牡馬として成功出来ず服部氏が営む鹿児島のニルキング牧場へ。
服部氏が食肉も扱っていた為、食肉にされると思われヒカルイマイの会が結成されるなど騒動が勃発した。
その後、種牡馬生活は続けられヒカルイマイの会は積立貯金をし支援を続け服部氏はそのお金で繁用牝馬を買うなどし25歳でヒカルイマイは亡くなった。
死後、ヒカルイマイの会は服部氏に残りの積立金を送り服部氏は牧場内に同馬のお墓を建立した。