日本馬匹輸送自動車株式会社
セントライト号



・シャシ(車体)/フロント
いすゞ 2代目ギガ
・架装
東京特殊車体(株)
・年式(運用開始)
2023年
・登録番号(車両ナンバー)
土浦100
き 21-11
・車の特徴
省略

セントライト(1938~1965)
東京 田中和一郎厩舎  牡馬 黒鹿毛
父 ダイオライト 母 フリッパンシー
(母父Flamboyant)

・主な勝ち鞍
横浜農林省賞典四歳呼馬(1941)
東京優駿競走(1941)
横浜農林省賞典四・五歳呼馬(1941)
京都農林省賞典四歳呼馬(1941)

父は数々の名馬を世に出し後にその名を冠する重賞レースが今日でも続いているダイオライト。母は後に顕彰馬に選らばれたトサミドリを産み出したフリッパンシー。その良血統の血を引き継いで後生語られる名馬がセントライトである。

新馬戦は7番人気と少々低評価であったが5馬身差で圧勝し好調なデビューを飾った。その勢いのまま当日の皐月賞に該当する横浜農林省賞典四歳呼馬に出走。1番人気に推されその期待に応える様に3馬身差で勝利を飾り一冠を手にした。そこから2レースは負け無しであったがハンディキャップ競争で2着とここで初の敗北となった。だが次走の古呼馬戦で勝利を果たし、東京優駿に挑んだ。

その年の東京優駿は重馬場の状態でセントライトにとっては2レース振りの重馬場であり、番人気は2番人気と一つ前走より下がっていた。しかし、セントライトは未だに破られない8馬身差でダービーを圧勝という記録を叩き出し二冠目をもぎ取った。レース後は日本競馬史上初のクラシック三冠を秋の目標と定め暫しの休養に入った。

復帰戦では二番人気となったが3着に破れる。次走の古呼馬戦にてリベンジを果たして横浜農林省賞典四・五歳呼馬を快勝。前哨戦として臨んだ古呼馬戦は京都に到着した日の四日後というドタバタの末に地元の馬であるコクチョウに2馬身差を付けられ2着となった。だがこの出来事がバネとなり本番に向けてより一層引き締まり、三冠の最終決戦となる現菊花賞の京都農林省賞典四歳呼馬に出走した。

そして当日の菊花賞は6頭立てと現代で見ればかなり少ない頭数であるが、どの馬も猛者であり、その中でセントライトは堂々の一番人気を推され、最後の一冠が掛かったレースの結果は2着馬に二馬身差をつけて勝利を掴み取り、日本競馬で初の三冠馬となった。しかし当日はダービーの方が注目度が高かった為、大々的に広がる事は無かった。そうした中、次走は帝室御賞典を目標としていたが前レースとなるハンディキャップ走で72kgという酷量を負わされる事が判明した為、馬に負担を掛ける事は出来ないという馬主の意見で引退を決意。僅か一年のレースであったが12戦9勝、内着外0という競馬界でも類を見ない輝かしい成績を残しターフから引退した。

引退後は種牡馬として岩手県の小岩井農場に移行し後の天皇賞(春)を勝利したオーエンス等を世に送り出した。しかしGHQによって三菱財閥は解体され小岩井農場はサラブレッド生産を禁じられてしまう。その影響でセントライトは1949年に岩手畜産試験場に移されてしまった。そうした中後に天皇賞(秋)を勝ち取るオーライト、同じレースである菊花賞に勝利したセントオーを世に送り出し、老衰の為27才でこの世を去った。初代三冠馬という大偉業を評価され1984年に顕彰馬に選ばれ、今尚その名を冠した馬運車は活躍している…

三冠馬の歴史はこの馬から始まる事になり、セントライトが亡くなる一年前に後に神馬と唱われるシンザン、そのシンザンが存命の中で常識破りの三冠馬ミスターシービーが誕生。その翌年に七冠馬、絶対的な皇帝と言われたシンボリルドルフ、その10年後に影さえ置き去りにする怪物であるナリタブライアン、2000年に入ると人々を激震させたディープインパクト、2011年に黄金の血統を証明させたオルフェーヴル、2020年に親子での三冠馬という深き偉業を達成したコントレイル。そのロマンに溢れる称号を冠する競走馬は現時点では8頭のみであり、この先再び現れる日を筆者は待ち望んでいる。