江戸時代 (1600年~1868年)

 

【神宮寺 鋳造の半鐘】江戸時代 約250年前 (1780年7月)

 境宮神社境内にあり、千手観音を祀っている。

 

 境内には、光明真言供養塔、三界萬霊碑がある。

 江戸時代以来、現在まで毎年旧暦八朔を満願日として、二夜三日の念仏供養が行われている。

 これは、「馬路常念仏供養」として池田町の指定重要文化財」となっている。

 

【光明真言供養碑】

   光明真言は「仏の光明を得てもろもろの罪報を免れる」との真言宗で唱える呪文の一つで、祈願と信仰のために建立された。

   馬路の「一藤・神宮寺・立石・金年・双子布」にある。

 

【高瑞庵】

 雲辺寺の支院であったが神宮寺に合併した。

 堂の久保に堂跡と堂守の墓が残っている。

 西三坊と称し、十一面観音を祀っている。

 

【観音堂】

 双子布にあり、十一面観音を祀っている。

 高さ30センチメートルほどの木像が安置されている。

 

【不動明王堂】

 金年にあり、たけ60センチメートルほどの木造座像の不動明王で江戸期のものと思われる。

 

【八朔(はっさく)】旧暦8月1日

   本来は収穫に先だつ穂掛(ほがけ)祭で、農家で、その年に取り入れした新しい稲などを、日ごろ恩顧を受けている主家や知人などに贈って祝った。

 

【常念仏(じょうねんぶつ)】

 

   この供養は、約200年ぼど前の江戸時代(1804~1829)馬路地域に悪病がはやり、天災もおこり多数の死亡者がでて、家が絶えるところもあり、住民はこぞって神仏に願をかけ、その加護によって、悪病を除け、併せて五穀豊穣、平和幸福をひたすら記念したとつたえられている。

 

 神宮寺では、今も毎年旧暦8月1日の正午まで、馬路地域からの参加者によって、高らかに念仏を唱えながら、鉦(かね)を打ち、数珠をくって二夜三日間にわたって、徹夜の供養が行われている。

 

 常時16人で3時間30分、8人8人でとなえ、総代20人のうち4人が常時出て、旧暦8月1日正午をもって神仏に祈った願いが満願成就(まんがんじょうじゅ)する。

 

   現在使われている大数珠は、全長約8メートル、重さ17キロだラムで、シキミの木で作られており、小さな珠玉が120個、大きな珠玉が2個ある。

 

   昔は青年男女の交さいの場であり、農産物の話、教育について、あるいは人々の近況生活を語り合うなど生活の知恵でもあった。

 

   供養期間中、堂前の庭に

  「奉修念佛供養二夜三日名中安全五穀成就祈」

  「大本本源四穣曼荼各々不離」

  「真言不思議観誦除無名證即身」

  「乃至法界平等利益」 と四面に書いた四角柱を建て、

 

  観音像と四角柱を長い白木綿でつなぎ、その下で念仏を唱え、最初と最後の朝夕、雲辺寺住職が読経し観音に祈念する。

 

【庚申塔(こうしんとう)】江戸時代建立

 (一藤)

 

   皆で飲食・歓談して過ごす集まりを3年18回続けた記念塔である。

   伊予街道沿いに4ヵ所建っている。(一藤・立石・三滝・双子布)

   健康長寿・家内安全・五穀豊穣、現世・来世を祈り碑面に刻んだ。

   庚申塔の横には、灯火をともす石で作った灯篭、石燈籠(いしどうろう)がある。

 

【八幡街道】江戸時代以前 (約450年前)

   白地渡しから双子布(ふたごの)を通って、峰づたいに伊予の八幡浜に至ると言われ、八幡街道とよばれていた。

   また、京都から派遣される国司・諸官人の往来したところから京街道とも言われる。

 

   各所に道しるべの石が立っており、50丁(約5.5km)ごとに旅の安全を祈る地蔵さんもまつられている。

   井ノ久保の庚申坂を登りきると馬路・佐野の盆地を見渡せるところに出たところが、千田峠で数軒の茶屋や地蔵堂があった。

 

   八幡街道沿いに双子布、五軒、古宮等の部落が栄え、白地から境目峠に行くまで馬路川を17回渡るが、その大部分は川の中に点々と配置する跳び渡り石で、厚板2枚並べの仮橋もあったが、橋らしい橋はなかった。

   馬路・佐野に「雨降り用心」という言葉がある。

 

【伊予街道】江戸時代 (約300年前)

   約300年前、白地渡しから双子布(ふたごの)を通って、峰づたいに伊予の八幡浜に至ると言われ、八幡街道とよばれていた道路から、河川沿い道路に変わっていった。

   池田から白地渡しを渡り、馬路川に沿い伊予に入る伊予街道は最も重要な交通路となった。

 

   大改修(1596~1614)が行われ一里ごと(約3.9km)に松を植え一里松という。

 馬路の一里松は下馬路の横持橋の西側にあった。

   道路修繕はすべて村民が行い、毎年関係村民総出で工事をした。

 

【寺子屋教育】1804年(江戸時代)

   下馬路庄屋が自宅で寺子屋を開き、読み・書き・そろばんのほか実用的な知識や作法も教えた。

  ・1811年 馬路村 戸数174戸、人口781、牛102

  ・1848年 双子布で寺子屋教授始まる。

 

【その他】

   1605年 慶長地震

 1674年 馬路村 戸数103戸、人口289(男子のみ)

 1707年 宝永地震 高知県震度6以上

   1721年 馬路村洪水、1756年 馬路村洪水

   1764年 馬路村 戸数150戸、人口649、牛48

   1780年 神宮寺半鐘奉造 ※神宮寺は境宮神社境内にある。

 1854年 安政南海地震 徳島県震度6