【伊予街道改修】1873年(明治6年)

 伊予街道(現192号線)の改修工事が開始された。

 

【伊予街道改修】1881年(明治14年) 

 

 白地・馬路間の坂道では「はながけ」という新職業も生まれた。

 

 路面はでこぼこで、幅も2間ぐらいで狭く、特に白地渡しから馬路に出る間は、急勾配で、荷物を満載した牛車は1頭の牛では登れなかった。

 そこで新職業として生まれたのが「はながけ」で、白地渡船場で牛をつれて待機し、白地渡しから馬路までの間、2頭の牛に牛車をひかせた。

 

 途中天神橋(今の天神温泉)、あど(今の農協製茶工場の側)に「めし」「うどん」と書いた「のれん」をたらした飲食店があり、通行人の休憩所となっていた。

 改良された伊予街道も洪水のたびに橋が流され、道路が崩れ通行が止まった。

 

【明治維新】江戸時代から明治時代へ (約150年前)

 

 19世紀後半に日本で起こった近代化への一連の改革を「明治維新」といいます。

   一般的には1853年のペリー来航を発端とし、明治政府による近代国民国家の基礎ができあがるまでを指しています。

 

   浦賀沖にペリーがやって来た際、江戸幕府は絶賛鎖国中でした。

   外国との貿易や文化の流入を制限していたにも関わらず、開国を求めるアメリカに屈し、「日米和親条約」を締結してしまいます。

 

   さらにイギリスやロシアとも不平等条約を結ぶことになり、当時の武士や民衆たちの間には不満が蔓延。倒幕思想が強まっていきました。

   そんななか、天皇を中心とした政府の成立を目指す薩摩藩と長州藩が同盟を結び、1868年に新政府軍(倒幕軍)と旧幕府軍が争う「戊辰(ぼしん)戦争」が勃発。

 

   約260年間続いた江戸幕府が滅亡し、日本は新しい明治時代へと進んでいきました。

 「富国強兵」「殖産興業」「文明開化」を3大スローガンに掲げ、諸外国に追いつくための改革に身を乗り出します。

 

 

 

【馬路村・佐野村の2村が1行政区画となる】 1879年(明治12年)

 戸長・用掛が村役場で事務をとる。

 

【馬路村・佐野村・白地村が1行政区画となる】1883年(明治16年) 

 

【佐馬地村誕生】1889年(明治22年)

 馬路村・佐野村・白地村が合併。佐馬地村大字馬路村となる。

 村役所を村役場と呼ぶようになった。

 

 

川念仏 (川で念仏を唱え死者を送る風習)

 

 

【人々の生活】

 馬路は平坦地が少なく、農業を主とする住民は明治以降も苦しい生活を余儀なくされ、長男以外は村を出て働く場所を求めた。