ビワハヤヒデ① | umahiko0048のブログ

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第1話 バブルの遺産
 いわゆるバブル経済全盛のころ、どの業界も例外なく飛躍的に購買力が増した。これまでは縁がなかったものであっても、少し手を伸ばせば簡単に届いてしまうようになったのである。力を頼りにのし上がってゆこうとするものにとっては、最高の時代であったに相違ない。

 そんなバブル経済の流れは、競馬の世界にも確実に影響を及ぼした。

 日本が競馬発展途上国であることは、否定できない事実である。だから、少しでも先進国に近づこうと思えば、欧米の優れた財産を取り入れることが早道となるわけだ。しかし、300年という途方もない年月をかけて培われた技術を導入することは、一朝一夕に行えることではない。それゆえ、もっとも手っ取り早い“血”という資産を争うようにして日本に持って来ることに血眼になったわけである。

 血とはなにか?

 それは、欧米の優れたサラブレッドにほかならない。バブル経済全盛のころ、馬が飛ぶように売れたため、生産者達の懐もおおいに潤った。国際的に円が強くなったこともあり、彼らはわれもわれもと良質の種牡馬(しゅぼば)、あるいは繁殖牝馬(はんしょくひんば)を買い求めたのである。それは、将来を見据えた生産戦略の上での投資であり、バブル長者が株や不動産投機によって利益を上げようとした行為に似ていなくもない。しかし、両者の決定的な違いは、株や不動産の価値が世の中の情勢によって左右されてしまうのに対し、サラブレッドはその馬の資質がすべてという点であろう。馬は景気不景気に左右されることなく、走るものは走るし、走らないものは走らない。つまり、将来の成功は、いかにして“本物”を掘り当てるかにかかっているわけだ(そのために、世の中の情勢を読むことが必要になってはくるが)。

 だから、競馬の世界では、一般社会で単なるあだ花でしかないバブルの遺産が、今(*1997年当時)も脈々と息づいている。

 供給の少ない平穏な時代だと、ちょっと目立つ程度の種牡馬でも、それなりに重宝される。しかし、種牡馬が氾濫(はんらん)して供給過多になると、その程度ではしだいに見向きもされなくなってしまう。必然的に本物しか残らない。土地やマンションは景気しだいで総値崩れ症状を起すが、サンデーサイレンスやトニービン、そしてブライアンズタイムの価値は景気には左右されないのである。

 激動の時代はまがい物を淘汰(とうた)する使命を担っている。そういう意味では、バブルとその崩壊は、本物を残すための一種のフィルターだったのかもしれない。

 そんな試練をくぐり抜け、この世の春を謳歌している代表が、かの社台グループであるのはいうまでもないだろう。

 前置きが長くなった。本題に入ろう。

 バブル経済の波にのり、いかにして将来のための布石を打つか? 生産者達はそこまで考えなくてはならなかった。故・吉田善哉の例を持ち出すまでもなく、生産界において大きな成功を収めるには、馬のスペシャリストでさえあればいいというものではない。牧場運営には、技術だけでなく経営面での才覚が必要だからである。

 そういった意味からすれば、早田牧場の早田光一郎は商才の豊かな人物であり、バブル期の投機に成功した人物といえるだろう。馬産をビジネスライクに考え、“成功はより良い投資によって決まる”と言い放つ男なのだから。

 ビワハヤヒデはそんな早田牧場が送り出した名馬である。同馬の強さは紛れもなく本物で、近年における最強馬の一頭と考える人も多い。ただ、その反面“最強”と呼ぶにあたって、なんとなくモヤモヤするものがあることも否定できない。そしてそのモヤモヤは、ビワハヤヒデが歩んだ道のりにおおいに関係していた。




第2話 カナダが結んだ縁

 ビワハヤヒデは、名牝(めいひん)パシフィカスが日本で生んだはじめての産駒である。ビワハヤヒデが生まれた年は1990年だから、パシフィカスの輸入は1989年ということになるわけで、その年は空前の輸入馬ラッシュにあたる。早田牧場にしても、その例に漏れずに多くの種牡馬(しゅぼば)や繁殖牝馬を導入したのは当然であろう。ただ、この年を前後して、現在(*1997年当時)にいたるまで多くの良血牝馬を輸入し続けていることもいうまでもないが。

 1989年における早田牧場の輸入繁殖牝馬には、いわゆる“当たり”が多い。パシフィカスを筆頭に、マーベラスクラウンの母モリタ、エルジェネシスの母ボールドアリゲーション、スイートリベンジ(G1勝ち馬セーフの近親、イイデタイショウの母)など、かなりの良血がそろっているのだ。それだけの馬をそろえることができた背景に、バブルという追い風の恩恵があったことを否定することはできない。

 では、そんな良血ぞろいの牝馬群において、パシフィカスはどのような位置付けであったのだろうか。

 価格でいえば、パシフィカス以上の牝馬があまたいたことは紛れもない事実である。しかも、血統的にパシフィカスをしのぐものもかなり多かったといわねばならない。正直なところ、多くの輸入牝馬のなかの一頭、すなわちワン・オブ・ゼムというところでしかなかったのが真相であろう。ただ、名馬のエピソードによくありがちな“まったく期待していなかった”というような類のものでもなく、早田光一郎のお眼鏡にかなったうちの一頭と解釈するのが妥当なところであろう。バブルの波に乗った、いわゆる“生産戦略”の一環と解するのがもっとも正しいのではなかろうか。

 早田光一郎は、パシフィカスの輸入に関して次のように述懐している。

「日本にいる既存の血統では、もはや太刀打ちできない時代になるということは、われわれの共通認識でした。それだけに、海外から優秀な血を導入することが、生き残るため、そして成功するための必須事項だったわけです。ただ、一生産者としての主張をいうなら、ノーザンダンサーの肌が欲しかったという点が、パシフィカス購入の最大のポイントでした。また、母がGI勝ち馬(パシフィックプリンセス / デラウェア・オークス)というのも魅力で、値段からすれば“掘りだし物”という気がしたのです。

 ただ、それとは別に個人的な思い入れも多分にありましたね。

 私には、若いころカナダに渡って修行した時代があります。ナッシュビル・スタッドというところなんですが、あのノーザンダンサーがいたウインドフィールズ・ファームと極めて深い関係にあった牧場なんですね。そのため、ノーザンダンサーには、種牡馬として大きな敬意を払っていると同時に、思い入れも大きいのです。しかも、パシフィカスはそのウインドフィールズ・ファームの生産馬だったのですから」

 カナダは、現在(*1997年当時)の早田光一郎の血肉となる部分を培った場である。しかも、夫人の由貴子さんと出会ったのもこの留学時代であった。カナダという国は、早田光一郎にとって青春の息吹を感じさせるところといえるだろう。もしかすると、早田とパシフィカスには、目に見えないなんらかの縁があったのかもしれない。余談になるが、後日早田はパシフィカスの近親を大挙輸入することになる。




第3話 ナンバー・ワンになれないジレンマ
 シャルードの種を宿したパシフィカスは、横浜で検疫を終えた後、福島の早田牧場で芦毛(あしげ)の牡駒(ぼく)を生み落とした。これが後のビワハヤヒデである。ただ、早田は幼少期のビワハヤヒデをそれほどつぶさに観察していたわけではない。早田牧場クラスともなれば、生産から育成までの役割分担がキッチリでき上がっているわけで、育成部門の信頼できるスペシャリストの手に委ねられる。だから、早田が一牧夫として一頭の馬にかかりっきりになることはまずありえない。それでも、多くの若駒のなかでも上位グループにランクされる動きを見せていたことは、早田の耳に届けられていた。もちろん、早田が実際に運動を見るに当たって、ビワハヤヒデの随所に光るものを見い出すことができたのはいうまでもない。ただ、当時、早田牧場の一番馬という評価を得ていたのは断然エルジェネシスで、それに続くのがマーベラスクラウン、ビワミサキ、イイデタイショウあたりといわれていたのは周知の事実であり、決してナンバー・ワンというまでの評価は受けていなかったのである。

 そのような幼少時代を過ごしたビワハヤヒデは、3歳(*現在の馬齢表記で2歳)になると栗東の浜田光正厩舎(きゅうしゃ)に入厩した。後のビワハヤヒデは、“賢い馬”という評判を得ているが、入厩当時からそのようなところが随所に見られたらしい。たとえば、小用をたすときなど、そこらにまき散らすということは決してせず、人間を呼んで缶などのなかに放尿する、というようなところがあったそうだ。その反面、普段からボーッとしたところがあり、どちらかというと“鈍感”な印象を受ける馬でもあったらしい。このように、“なんとなくつかみどころのない馬”というのが入厩当時のビワハヤヒデ像であった。

 それにしても、前評判にたがわないどころか、恐るべきデビューであった。馬体の威圧感はそれほどでないにしても、直線だけの伸び脚でみるみるうちに後続に大差をつけるという鮮烈なレース振りは、ケタ外れの能力なしにできる芸当でないことは誰の目にも明らかであった。しかも、2戦目のもみじステークス、3戦目デイリー杯3歳ステークス(現、デイリー杯3歳ステークス)を、ともにレコードで楽勝したのである。クラシックの有力候補の一頭と目されるようになったのも当然であろう。

 けれども、ビワハヤヒデの幼少期の評価がそうであったように、結局3歳(*現在の馬齢表記で2歳)ナンバー・ワンの評価を得ることはできずに終わった。すなわち、3歳(*現在の馬齢表記で2歳)チャンピオンを決める朝日杯3歳ステークス(現、朝日杯フューチュリティステークス)において、外国産馬のエルウェーウィンに競り負けてしまったからである。しかも、レース内容においても“将来的に有望”という声は極めて少なく、おまけにウイニングチケットが葉牡丹賞、ホープフルステークスを奥の深いレース内容で連勝したことから、“ダービーはウイニングチケットで決まり”という風評もチラホラしはじめていた。

 その時点で、後にビワハヤヒデが天下をとれるような馬に成長すると考えたものは、ほとんど皆無といっても差し支えないであろう。

 それでも、デビューを控えた調教の動きは良好で、素質の片りんをのぞかせていた。新馬戦でも断然の本命に推されたのはいうまでもない。





第4話 雌伏の日は続く
 年明けた平成5年、ビワハヤヒデは4歳(*現在の馬齢表記で3歳)緒戦に共同通信杯4歳ステークス(現、共同通信杯)を選んだ。ところが、3歳(*現在の馬齢表記で2歳)時の実績から本命に推されていたのは当然であったとしてもその期待に反し、このレースでも一敗地にまみれてしまったのである。しかも、ビワハヤヒデを破ったのは、関東でも2番手、3番手集団の一頭という程度にしか考えられていなかったマイネルリマークだった。

 この共同通信杯4歳ステークス(現、共同通信杯)、そして朝日杯3歳ステークス(現、朝日杯フューチュリティステークス)の結果によって、ビワハヤヒデの前途を危ぶむ声は極めて多くなっていた。まずは“平たん向き”と考えるものが現われた。というのは、朝日杯が行われた中山競馬場、共同通信杯が行われた東京競馬場の直線はともに坂があり、そこで伸び脚が止まる、というのである。また、3歳(*現在の馬齢表記で2歳)時の1400メートル、1600メートルのレースでレコード勝ちという輝かしい実績も、“早熟”の一言でかたづけられるようにもなった。そして、父シャルードがそれほど高名な種牡馬(しゅぼば)でなかったという理由から、“血の限界”などという説まで出始めたのである。とにかく、“将来性”という点で、ビワハヤヒデの評価はガタ落ちであった。

 まず、皐月賞指定オープンの若葉ステークスで、2着ケントニーオー以下に2馬身差の楽勝劇を決めた。なお、このレースから、岸滋彦にかわって岡部幸雄が手綱を取るようになったが、この鞍上(あんじょう)強化は関係者にとって心強いものであったろう。そして、クラシック戦線第一弾の皐月賞では、本命こそウイニングチケットに譲ったものの、2番人気を得るまでに信頼を回復し、2着を死守したのである。内容的にも、自ら勝ちにゆくきびしいレースでありながら、勝ったナリタタイシンとはわずかクビ差という極めて濃いものであり(確かにナリタタイシンの追い込みは素晴らしかったが、ビワハヤヒデに比べて展開の利があったことは否定できない)、一時の酷評は完全に覆されたといっていいだろう。しかも、これまで一度も連対を外していないことから(それも、着差はすべて0.1秒以内)、安定感という点で大きく見直されもした。

 そしていよいよ、競馬の最高峰ダービーを迎えることになる。

 この年の4歳(*現在の馬齢表記で3歳)牡馬の闘いは“3強対決”と銘打たれていた。まさに、激闘によって力のないものが淘汰(とうた)され、本物だけが残されていたといわなければならない。

 ウイニングチケット、ビワハヤヒデ、ナリタタイシン。

 この3頭が、平成2年生まれのサラブレッドの頂点を争うであろうことは、誰の目にも明らかであった。ただ、この中でいわゆるG1レースを制しているのはナリタタイシンだけであったにもかかわらず、3頭のうちもっとも評価が低かったのもナリタタイシンであった。皐月賞の勝ちに展開の利があったこと、そして、ムラのある成績と脚質から、信頼度という点で幾分人気を下げていたようである。また、ことダービーに限っていえば、ほとんどウイニングチケットの勝利が既成事実であるような感もあった。そのことは、ウイニングチケットの鞍上・柴田政人の存在抜きには語れないであろう。

 柴田政人は岡部幸雄と並び称される名手で、これまでに数々の大レースをモノにしてきてはいるのだが、なぜかダービーだけには縁がなかった。皐月賞、菊花賞、天皇賞に勝ったミホシンザンなどは大きなチャンスだったといえるが、骨折でダービーを棒に振るというツキのなさもあった。「ダービーは運のいい馬が勝つ」と、いわれているが、柴田にはその運がなかったというしかない。

 柴田政人は、“すべてはダービーが終わってから”と、マスコミの取材をシャットアウトし、これまでのジョッキー人生のすべてをかけるかのようにダービーに臨んだ。また、「ダービーを取れたら騎手をやめてもいい」という柴田の名言はあまりにも有名である。そんな彼の意気込みが報道陣に伝わらないはずはなく、スポーツ紙も連日のようにウイニングチケットを追いかけ、柴田を後押ししたのである。ウイニングチケットが、いや、ウイニングチケットというより柴田政人がダービーに勝つのは、まさに既成事実のような雰囲気があった。連対率100パーセントの堅実馬、皐月賞馬を押し退け、ウイニングチケットが本命の座に押し上げられていたのはいうまでもない(もっとも、ジョッキー事情を抜きにしても、ウイニングチケットの能力を最上位と考えたファンが多かったことも事実である。皐月賞に敗れたとはいえ、弥生賞での強烈な追い込みを目に焼き付けられていたからだ)。

 そのような雰囲気と同様に、本番のほうも絵に描いたような劇的な結末であった。積極的に早めに仕掛けたウイニングチケット。正攻法の勝負に出たビワハヤヒデ。そして、例によって後方から激しく追い込むナリタタイシン。ゴール前の攻防はこの3頭に絞られ、ついにはウイニングチケットが2頭のライバルを振り切り、第60代ダービー馬の座に輝いたのである。ビワハヤヒデは、またもや善戦止まりの2着であった。

 そして、本格的なクラシックシーズンに突入するのだが、“平たん向きの早熟馬”と酷評された馬は世評に反発するように大健闘することになる。



第5話 喧騒のあと
 競馬に“タラレバ”は禁物であるという。しかし、“あのダービーに関してタラレバが許されるなら、もしかするとビワハヤヒデが勝っていたかもしれない”と主張する人は少なくない。というのは、名手岡部にしては珍しい位置取りのミスなどによって、ロスがあったというのである。しかし、岡部の位置取りがいささかまずかったというのは確かに事実ではあるが、あのときの柴田政人とウイニングチケットには、説明不能とも思える鬼神のようなものが取り憑(つ)いていた雰囲気があり、理詰めでは立証不能の何かがあったような気がしてならない(人はそれをして“ダービーは運のいい馬が勝つ”という)。また、競馬をドラマと考えるなら、平成5年のダービーはまさに良くできた物語であり、いわゆる最高の筋書きであったともいえる。もしビワハヤヒデが勝っていたなら、それまでの経緯からして、岡部幸雄とビワハヤヒデは希代の悪役として競馬史に名を残す可能性すらあったわけで、それでは最高の筋書きとはいえなくなってしまう。とにかく、ウイニングチケットは勝つべくしてダービーに勝ったのではないか、と筆者には思えてならない。まあ、そのような筆者の個人的感想はどうでもいいとしても、やはり結果は結果として素直に受け止めるべきではあるまいか。ただ、ひとつだけいえることがあるとすれば、ダービーの時点においては、ウイニングチケットとビワハヤヒデは、ほぼ互角の力を持ったサラブレッドだった、ということであろう。

 ダービーは終わった。しかし、2頭の闘いがダービーで完結したというわけではない。菊花賞を始めとして、さらなる死闘が待っているのである。ただ、そういった将来的なことに関していうなら、ダービー直後はやはりウイニングチケットに分があるという世評が大勢を占めていた。というのは、ウイニングチケットの父トニービンが、5歳(*現在の馬齢表記で4歳)で凱旋門賞2着、6歳(*現在の馬齢表記で5歳)で凱旋門賞勝ちと、成長力に富んだ種牡馬(しゅぼば)だったからである。ビワハヤヒデ=早熟の声は霧消しつつあったとはいえ、血統的見地からダービー馬優位の声のほうが大きかったのである。

 また、人気の面でも、ウイニングチケットはビワハヤヒデを凌駕(りょうが)していた。元来、人気を集める馬というのはハデなレースをする馬と相場が決まっている。その点からして、ビワハヤヒデのレース振りはいわゆる岡部乗りの典型で、馬券の連軸には最適であっても、大向こう受けはしづらいタイプであった。それに対してウイニングチケットはというと、豪快な末脚を武器にしたハデな馬である。後者がより多くの人気を集めたのも当然であろう。

 さらには、出生の経緯も人気に微妙に影響を及ぼした。

 ウイニングチケットの父トニービンは、輸入種牡馬とはいっても、凱旋門賞に勝った著名馬で(ジャパンカップにも出走し、日本人にもおなじみ)、母系にしても日本でも有数の名牝馬(めいひんば)(スターロッチ系 / 近親にはサクラシンゲキ、サクラスターオー、サクラユタカオーなど、ファンにもおなじみの馬が勢ぞろい)である。そのため、ブランド指向と母国愛という相反する条件がほどよくミクスチュアされた、いかにもファン好みの馬にできあがっていたのだ。それに対してビワハヤヒデはというと、シャルードというなじみのない父を持つ持ち込み馬で、当時のバブリーなにおいを濃厚に感じさせる、下手をすると反発心すら抱かせるタイプだったのである。いずれにせよ、この2頭が宿命的な関係になるであろうと考えられていた。

 WB対決(ナリタタイシンは、2頭より若干下に見られていた)。

 それが、平成5年の4歳(*現在の馬齢表記で3歳)秋競馬のおおかたの予想である。

 けれども、結果はそうはならなかった。ビワハヤヒデというサラブレッドは、われわれが考えていた以上にはるかに恐ろしい成長力を持った馬だったからである。