1945年のこの日、第二次世界大戦が終了しました。
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毎日遅くまで、世界陸上を見ているため、少々寝不足。(やっと終わりました(´-`)
なぜか見てしまうこの手の放送。
スポーツがすごく好きというわけでもないのに・・・
お休みが始まってから、少し出かけては家にいてとダラダラ過ぎていってしまっています。←こういうパターンが一番よくない?
お盆に親戚がくるので、実家にも行ってきます。
続いてのお仕事は、自動車修理やさんのお話です。
スーパーでの仕事でパートの仕事はこりたのでやらないと思っていたのですが、知人の紹介で近所の自動車修理やさんでパートとして働くことになりました。
子供たちが幼稚園、小学校低学年(学童保育がまだなかった)と時間的に中途半端に働くしかなかったので、9時~16時、土日休みの仕事は都合が良かったのです。
ただし、時給750円。
週5日働いても7万くらいしかならず、事務をしていた娘さんが別の仕事をしないとならないとすぐに辞められ、一人ですべてをやらなくてはならなくなり、仕事が終らないこと、古い体制すぎて新しいことをしたくても融通が一切きかなかったりとムリムリなことばかりでダメだなと思いましたが、知人の紹介だったので勝手なことも出来ず…
社長は小さい会社だからのんびりしていいよと言ってくれましたが、のんびりなんてとんでもなく…。
娘さんは夜などあいてる時間にきて仕事をしていたとあとで知りました(それじゃなければ終わらなかったでしょう)
家庭内仕事だったので、近所の人が野菜などをもってくると冷蔵庫に入れたりしないとならないよくわからない仕事があったり(ゆるくて良かったのではと思いますが、会社と考えると?)
娘さんのお母さん(おばあさん)も仕事を手伝っていたので、手伝いにきてくれていましたが、世間話が大好きで仕事をしているより世間話で終わってしまうような感じ
でも、おばあちゃんといると思うと気がラクになり、たくさん為になる話もありました。今でも心に残っている言葉も多いです
「亡くなったおじいさんは何にもお金を残さなかったけれど、死んだ時には誰からもうらまれることもなくすーと消えるようになくなっていった。理想的な消え方だった」と。
イヤな人にもたくさん出会いましたが、この言葉を聞いてからお金などなくても死ぬときだけは誰にもうらまれることなくすっきりとした形で死んでいきたいなと思えるようになったのでした。
ひどいことをしていた人たちは、亡くなるときに良い死に方をしないなあと思っていたので。
でも、半年後にはこの会社からサヨナラすることになりました
なぜ辞めたかというと・・・。
社長からクビ宣言を受けたからです(苦笑)
時間がなかったので、必死で仕事をしざるえず(車でお客さんを送っていったり、おばあちゃんを病院につれていったりもしていたのです)毎日機嫌がよくなかったからかもしれません。
ヘルパー兼事務員と割り切れればよかったのですが、当時の私は若くそんな気持ちにもなれず。(お給料も少なかったので割り切れない部分も・・・)自分しかいない職場だった為お休みも取れず、ストレスマックスだったかも。(自営の大変さも少し経験させて頂いた感じです)
別の事務員さんを探してきたから、その方に仕事をやってもらうからと
あからさまにクビとは言わず、引き継ぎはやってくれという都合の良い話(新しい人は事務経験のない人だったのできっちり1ヶ月引き継ぎに費やし)
ただし、会社都合で辞めさせてもらったおかげで、すぐに失業保険がもらえたのはラッキーでした。
失業保険は土日もでたので、パートでもらう額より多かったという笑えないオチも!
結果的にはラッキーだったのでしょうか?
職業訓練も盛んな時期だったので、失業保険を受けている間にパソコン資格も取れる訓練に参加させてもらえることになりました。(ワンランク上の資格を取得できました)
失業保険があと1ヶ月で終わるタイミングで受講したため、3ヶ月のコースだったため、トータルで2ヶ月多くもらえることに!
職業訓練はこんな裏技もあるのですね。私は意図した訳ではなく、時期的にこうなっただけですが…(最近はメジャーになってしまい、使えなくなりつつあるようです)
パートでも雇用保険だけは入ってもらっていたため(安かったので入ってくれた)失業保険をもらえるシステムがあったのです。(今では社会保険とセットでないとダメになったようです)
いろいろと思うことはありましたが、結果的には美味しい仕事ということになりました
仕事をしている間に損害保険の資格も取り(取らないとならなかった)車検の仕方も学んだため、今でも役にたっています。
訓練校時代にお友達も出来(前に書いた公団の仕事でのその後の話の子もこのときに知り合いました)楽しい学生生活を送れたのでした。