閲覧、いいね ありがとう愛してる。
昨日書いた記事の別視点のようなもの
孤独で孤立してる人が亡くなった時、
他人に「喪してほしい」と思う時にはすでに遅く、
見知らぬ人をどう喪に服せばいいのかもわからない状態になる。
アマチュア俳優のような人の練習用にでもなる気か。
無縁になってしまう。
都合の良い人生を歩んでいたら、都合の悪い終わり方をする。
老後の資金や老後の人間関係で悩む人は多くいると思うけれど、
孤独や孤立してる人ほど・・それの次に大事で・・
見知らぬ人、関わってない人が亡くなった程度にしか感じさせない。
そうならないために・・
親友と呼べる人を1~2人は関係を持っておいたほうがいいと感じる。
AIやSNSは距離のある関係が過ぎるから本人には届かない。
現実的に長く接してきた人が、正真正銘の人間関係だから、
遠すぎる関係に「喪に服してほしい」と願うのは、図々しい。
図々しく生きていたなら、図々しい終わり方にはなる。
愛も情もない、願いだけは自己都合、傲慢なら、
それはそれなりの終わり方をすると思う。
「願いを懸ける」というのは、自己都合の人間関係に落とし込められ、
命を懸けてまで自己都合の人生を歩んでいたなら、
他人に喪の服されたとしても、それなりの感想しか抱かれない。
本当に世界平和を願って、人間関係が良好なら、
人事を尽くして全うしたとして、それなりの感想になる。
会社勤めを嫌う人やすぐ退職する人は、
亡くなったとき、誰にも喪に服されないのだろうなって思うほど、
浅い人間関係に見える。
その中でもSNSしか信じなくて、孤立・孤独を味わってる人は、
なおさら、無縁にまっしぐら。
会社勤めを10年でもしていれば、会社から見た性格で何とか判断できて、
まじめに働いていたなら、喪に服してもらえると思うが・・。
個人の時間や自由を優先する社会では、やはり難しい。
哀しい世の中だ。
冠婚葬祭の神髄は「葬」にあるのだろうなぁ・・。
全部、人間関係があってこそできることだが・・
終わりが大事なようなところがあるからこそ「葬」が一番人生の結果が見える。
ただし、本人はわからない。
無縁にならないための工夫は、世の中に必要。
孤独でいいとか寂しく感じるね。