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この2日ほど・・
心が乱れる。
社会に対してではなく、自分の心に対しての錯乱。
他者への影響はないのだけど、随分と心が迷わされる。
「原因」としてみたくはないが・・
風水的に「人物画」にみられて寝るのはよくないとされるが、
ほぼ見つめあって寝てるような状態ではある。
その人物画に心を使われてるような・・くすぐったいような・・
奇妙な感覚になる。
それは「迷い」とは違うが「悩み」を強制的に引っ張り出されて、
迷いにつながってるのはありそう。
頑固な私の一部の人格が抗うから「迷うこと」が「心地よい」と・・
錯覚し始めてるのもある。
それはおいといて・・
◆
20代前半のころまでは、その「迷うことの心地よさ」は、
我がままな一面を持っていたが、自由な感覚だったなとは思う。
30歳で社会的地位や仕事への迷いが舞い込んで、
「迷うことの心地よさ」=「自由な感覚」が薄れて、
0.5ステージ分だけ大人になる感覚が優先されて、
「迷うこと」=「自由の欠如」=「時間貧乏」になって、
「迷うことの心地よさ」を忘れやすくしてしまう。
「迷うことの心地よさ」は、童心の一つなのかもしれない。
ホームセンターの工具売り場で、買うわけでもなく、
見た目のカッコよさで目をキラキラさせるとか・・・。
◆
ハッキリとした生き方もいいが、正しい迷いで心地よくなれば、
他者依存のある生き方はしなくなるのかなと思う。
動画視聴に依存性を持つ人は、正しい迷いを持っていなくて、
時間貧乏になることが楽しいのだろうとも思える。
前進するには、正しく迷うことも必要かもしれない。
歪んだ迷いは、ただの傲慢とも言えそうだが・・。
正しい迷いに加えて、技術的な工程を直感的につかめるなら、
それは楽観的な考えにつながるか。
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冒頭の「心の乱れ」は、ブログにも人間関係を持ってても、
あまり言えない事情が大きく混ざってるから語り切れない。
時間は戻らないし、戻したくない過去もある。