訪問者の悪より、身内の善
訪問者の善より、身内の悪
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前者は、訪問者が来ることへの不安が高まっていて、
「なぜ断るスキのない状況で受け入れてしまったのか」と相手を悪としてしまうが。
そうなるのは、訪問販売などの来客は悪意あるものとしての考えが先に来て、
身内は断ることが当たり前と化す。
丁寧に傾聴しないで断ることで「善をした」という自己満足感を身内が得ること。
事象が終われば、普段通りのテンションの対話ではある。
必要・不要の認識があり、いらない予定かどうかを分別する。
後者は、訪問者が来訪時に起きることで、
実はそこまで身構えなくても良いと不安が拭えつつあるとき、
訪問者がビジネス目的なら、契約者の意見が優先されるため、
その契約者が身内であるとき、訪問者に対して一方的な不快感を与えながら、
最終局面まで話を進めさせておいて「そのこと」を断る。
契約者が違えば、おそらく断らなかった状況で、身内の無関心ぶりに悪意を感じた。
来訪者が去ってしまえば、饒舌になる。
露骨に要らない予定のような扱いをし始め、予定の分別すら面倒のようだ。
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無関心や好奇心のない状態になっても、自己満足の自尊心だけは残るようだ。
自己満足が大きい時ほど、饒舌で多弁になりやすい。
無関心な出来事になれば、葬式のように黙ってたり、小さい声になる。
そういう身内の悪い癖が自分に映ってることを思うと、とても憂鬱になる。
本当は断りたくなかったのだが、契約者の意見だからね。
不完全燃焼の気持ち。
訪問者に対して身構えていた時は、訪問者が来るというので憂鬱になったが、
着てしばらくして、身内に対して憂鬱になった。
前記事「割れたザクロ」の話の延長のようなものだ。