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言葉は鏡で「山彦」
行動は鏡で「飛去来器」
言動は鏡で「自分」
相手が怯えていたら、自分も怯えている。
相手がしてきたことは、自分も何かしてる。
鏡は「人」で「相手」で「自分」。
「残像が残る鏡」ほど、その中でもより「現実的な鏡」ほど
「自分」に返ってきやすい。
その反応が、その人の本性だから。
夢物語であれ、日常の出来事であれ・・
相手が本音で喜んでいたら、自分も本音で喜んでるのが分かる。
相手が本音で文句を言っていたら、自分も本音で文句を言ってる。
漫画の名言を少しいじれば・・
「何かを教えるとき、教わる側が困ってた時は、教える側の努力が足りない、
それは一緒に悩める時間になる、文句を言う時間に使うのはもったいない」。
友を抱えれる人数はたかが知れてる。
それ以上の友を抱えようとするから・・鏡が、より自分になる。
「平均顔合成」のような「繊細な応用の事象」が発生し、
その「平均顔」の視線は「自分」になる。
友が多ければ「偽りの自分」になってる証明でもある。
「自分を分かってくれる友」が少なくて当然。
鏡の向こうは行動範囲を制限されてる。
他人からすれば、一場面でしかその人を捉えれない。
本当の自分を知ってもらおうとすればするほど
「自分の全体性を失う」ということを理解したほうがいい。
文字が変になる感覚であれば、まだ可愛いものだが・・。