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「間違っていると思える目的」は、何か重要な気がしてきます。

それは自覚であり、自認だからです。

「正しいと思える手段」は、こちらも自覚は存在してますが、責任転嫁もありと言う事です。

 

しかし、私は、昨晩から、性別がどっちでもない自認に陥ってますわ。

なんですかね。

「憧れ」が起きてるはずなのに、自認が起きない・・、

なるほど、これに耐えれない人が自分の命を断とうとする現象ですか。

とにかく、ぼーっとしていたいと思うようになり、心に性別を問い続けても、首をかしげたり、

反応が得られないような感じです。

私は判断材料が多いですから、性別の自認に錯乱されては困るのですけどね。

 

自覚と言う、人間の感情はややこしいが、どこで司っているかで割と分解できてしまいます。

自分で覚えがあるから、五感、五臓六腑、脳、骨が理解しています。

自認だけは、心の質疑応答なので、面倒な時は面倒です。

自分で認めるが、脳は割と認めていないので、やはり心なのです。

真剣に、心と向き合った結果の自認です。

「間違っていると思える目的」が必要です。

心は、キャッチボールではダメなんです。

キャッチボールでは、早すぎて付いていけない時があります。

ゴルフ・・ゲートボール・・それぐらいマッタリとした心でないといけないです。

時と場合によります。

瞬間的な判断の時、自認のマッタリさが命取りになるからです。

 

心は疲れないようにしておかないと、余裕がありませんから。

 

(いつもより、文字数が少ないのは、本当に性別の自認でぼーっとしたいのです。)