私の仮説ですので。
仕事や用事を頼まれることで、
「できる、できない」、「やりたいこと、したくないこと」に、人は分けてしまいます。
さらに、そこから、「向いてる、向いていない」に分岐して、
寄り自分との相性のある作業を人は探します。
「できる」は西洋式の物事の進め方で、
「できない」は日本独自の物事の進め方だと考えてもよいです。
それがあって、伝統工芸品は研ぎ澄まされたものが多いのです。
「できない」を「できる」まで持ち込むことで、「できる」に到達した後、
言葉通り「一芸に秀でる」、「悟り」となります。
逆に、「できる」事ばかりしていると、そうはならないのです。
お手つきや、つまみ食いだらけになり、「多芸は無芸」になります。
「やりたいこと」は、喜怒哀楽で言えば、喜びと楽しさになり、
観たくないものには蓋をする精神になるということです。
楽しければいい、自分さえよければいいという人がいるが、
正義を振りかざしたところで何の根拠のない場合があり、
「観たくないもの」は、「自分の真意、心」と言うことです。
「したくないこと」は、怒りと哀しみだけになり、
観たいものには蓋をする精神となるということです。
相手を叱責してるとき、見透かしたかのような発言をする人がいるが、
かなりズレた見透かし方で、的外れにもほどがある場合あり、
「観たいもの」は、「相手の真意、心」ということです。
「向いている、向いていない」は、これとは少し違います。
褒めてくれる、体が受け付けるという精神論は、少し正解です。
もっと肉体的に考えれば、ノルアドレナリンや、アドレナリン次第です。
不快や、緊張を無理やり抱え込めば出てきますから、
作業の終わりに、「なんか楽しい」と思うのです。そして、「向いている」と
勝手に思い込んだり、思われたりします。
舞台演劇で、「緊張をしない奴は売れない」というのもコレになると思います。
分泌され、感情を込めながらも、ぎこちない会話になり、
「人慣れが少し遅い人」と同様に、そこに「愛嬌」が生まれます。
新入社員の歓迎会などで、本人は緊張してる状態で飲むのですから、
そのぎこちなさに同情をして、飲み会が盛り上がるということです。
結論的に、「向いてる、向いていない」は関係がなく、
「やりたいこと」と「できないこと」のどちらかをやり続けることで、
「やりたいこと」ばかりしていた人より、「できないこと」を続けた人のほうが、
忍耐力もあり、頭が固い人に見えるが広い視野を持ちます。
「やりたいこと」ばかりしてる人は、頭は柔らかい、広い視野を持つ、
ただ忍耐力がない、お手つきがどんどん増えていきます。
もう一歩で多くの事は完成されるのに、「やりたいこと」ばかりしているから、
10歩も20歩も遠ざかります。
「やりたくないこと」をやり続ける人は、無意味に怒ってる人になり、
しかめっ面になっていきます。
つまり、歯を食いしばるあまり、口が傾くということです。
(パチスロなどをやってる人にも良く見られます)
「できること」をやり続けようとすると、灯台下暗しのようになります。
海が観光地なのに、海の事を知らない地元民とか、
地元なのに土地・観光地を知らないことです。
指摘され、ようやく気付くか、ほかの土地の人が観光開発をするということです。
以前、テレビでやっていた初耳学を、それを私なりに解釈しなおした次第です。