ヴィム・ヴェンダース監督の最新作、「アンゼルム・“傷ついた世界”の芸術家」観てきた‥。

 

 

アンゼルム・キーファーの作品、なんとなくしか知らなかったけど、すごい。

世界の終わりと始まり。

 

冬枯れた森の中に佇む人影、のようなもの。

裳裾を長く長くひく純白のドレスは毅然と前を向いて、すっくと佇んでいる。

柔らかく地に広がり満ちる裳裾の襞には、風雨に晒され、木の枝や塵や枯れた葉っぱが。

ゆっくりと森に朝陽が昇ると、夕べの雨が襞の合間に水たまりになって残り、朝陽を照らし出して光る。

 

孤高な魂がそこにある。

けれど彼女は決して、屈しない。

真っ直ぐに真っ直ぐに凛として。

 

身体はそこにないのに。

 

うち捨てられているようでもあり、彼女自身が選んでそこにいるようでもあり・・。ただ、目が離せない。

 

アンゼルム・キーファー。

1968〜69年には、ナチス式敬礼の自身の写真「占拠」で大戦のドイツの罪に向き合い、湾岸戦争の80年代には戦闘機の化石を発表し、常に問い続けるアーティスト。

 



アトリエは広大な工場。彼の作品の素材が並ぶあの鉛の灰色の世界を、時に自転車で、時には電動の乗り物で移動していく。

 

 

ガスバーナーは激しく火を吹き、麦藁を貼り付けた壁面のような作品にキーファーが火を放つと、すかさず弟子がホースで水をかけて鎮火する。

画面には戦車がなぎ倒していった寒々とした光景が現れる。

或いは、壁のように大きな板の上に熱い炎で溶かされた鉛をひしゃくで、バケツで、重機を使って流し、飛び散らせていく。濛々と煙が立ち上り辺りは白くけぶる。床に置かれた作品には、更に動きのある鉛の層が広がっていく。

こんな風にあの巨大な作品はできていく・・・。

 

鋼色の戦闘機の羽のようなオブジェをキーファーは「あれはウリエル」「ガブリエル」「ラファエル」と大天使の名で呼ぶ。すると、羽は大天使の身体の一部で、あの羽を羽ばたかせて大天使が天へ飛翔していくような錯覚すら覚える。

 


 

 

ヴィム・ヴェンダースらしい削ぎ落とされた演出。近未来の映画のセットにしか見えない、インダストリアルなアンゼルムの広大なアトリエ。



ドキュメンタリーでありながら、過去のアンゼルムを演ずる少年が登場し、過去と現在が交錯していく。

(ヴェンダース監督の孫甥くん)

 

 

少年は、小さな白い部屋で詩の本を声を出して読む。

 

それはユダヤ人ツェランの詩。

 

「言葉は存在の家である。

 

私は壺から暗闇をこぼした。」

 

 

 

「両親が殺されたウクライナでは

何か花が咲いていた?」

 

それは恐ろしい花だった?

あなたはそれをルピナスとは呼ばなかった。

オオカミ豆と呼んだ・・初めて知るパウル・ツェランとその詩の重み。

アウシュヴィッツで殺された母へ向かって。

 

 

「お母さん、ぼくは誰の手を握ったの?」

 

 

 

ナチスによる詩人や芸術の悪用。

アンゼルムはナチスが悪用した詩人や芸術家の肖像を作品に取り入れ、物議を醸す。戦争は終わっていたが、まだ戦争の名残の続く時代に生きていた。

 

 

1968年から69年。

それは彼が父親のものだった軍服を借り、あらゆる場所でナチス式の敬礼をして「占拠」と題した写真を撮って発表した時期。

彼をネオナチと呼び反感もかった。

 

当時戦争で何があったのか大人たちは忘れようとし、振り返っての反省などは皆無の時代だったそうだ。

 

 

占拠は鏡でもあった、と。

 

「ネオ・ファシストと言われたら、傷つくよ。自分はネオ・ファシストではない、しかし自分を反ファシストと呼んだら、反ファシストへの侮辱だ」とインタビューで答えてもいる。

 

(「占拠」の写真を撮るアンゼルム・キーファー役は、アンゼルムの息子さん。当時のアンゼルム・キーファーにかなり似ていて、最初当時のフィルム・・?いや、役者さんで撮影した場面か・・と、理解するまでに時間がかかった。ところどころ、息子さんが演じ、ところどころが当時の古いフィルム。)

 

 

 

「もし1930年代に(自分が)いたらどんな人間だったのか」

 

何もかもが過去になってしまった時代を生きている私達には、わからない。あの時代に生きていて、狂乱の渦に巻き込まれて行った時、あまりにも単純に、簡単にあちら側にいて疑問なく生きていたかもしれないのだから。アンゼルムの問いは、私もいつもふと考える問いでもある。

 

飛行機から撮った様々な写真を鉛の本に収めた作品がある。

「地球の肌なんだ」と彼は言った。

 

「鉛の見た目は軽く風でページがめくれるようにみえる。

 風の音が聞こえたと思ったんだ。貴方は?」

 

見た目は軽やかな黒ずんだ銀の本は男性二人で持ち上げるほど重い。

地球の肌を収めた本は半永久的にその本棚に収められている。

重い鉛の本達が並ぶ本棚。本棚に囲まれた部屋の真ん中には枯れた芥子の花束が。

 

「芥子と記憶」

 

インタビュー記事の写真より。「芥子の記憶」の前のアンゼルム・キーファー&ヴィム・ヴェンダース。地球の肌の記録は巨大で重そう・・。

 

 

 

 

 

鉛で作られた紙の束の上の白い本物の本。風によってパラパラとめくられていく。

 

 

鉛がかけられた衣服が螺旋階段にかかっていて、

螺旋階段を昇っていくアンゼルムがその衣類を一枚一枚投げ捨てていく場面は、映像そのものが作品だった。

 

重みのある鉛色の服は、思いがけないほど大きな音を立ててドサリ、と地面に落ちる。

 

無数の、名もない、殺されていった人々がいた!と叫ぶように。

 

投げ捨てられた衣服の落ちた床の壁には、雪に覆われた地面に夥しい木の杭が打たれた広大な野原と鉛色の空の作品。

墓標、だろうか。

 

 

 

 

すりガラス張りの広々とした明るい室内に佇む純白のドレスの群像。

頭部には積み重なった煉瓦や天球儀、ガラスと鉄の枠の正方形のオブジェ、枝や藁。

ドレスに割れた板ガラスが夥しく刺さったものも。

 

キーファーの作品、「古代の女たち」

 

神話に逃げたと揶揄されるも、キーファーはこのような言葉を語っている。

 

 

「神話は疑問に答える。

 どこから来てどこへいくのか。(略)

 塵に過ぎないものは、塵に帰る。」

 

「最大の神話は人間自身。」

 

「神話に逃げたのではない。

 神話は歴史を理解する手段。」

 

昔話を語っていた時、語り継がれてきたおはなしの中には人生の真実が隠されていると学んだし、本当にそうだな、と感じることが多々あった。だからきっと、神話も同じなのではないだろうか。アンゼルムがたどり着いた神話のモチーフには、語り継いできた人々の真実の物語があるはず。

 

「落ちる者すべてに翼がある。」

 

「無は存在の一部分。

 何かを始める時、なぐさめにもなる。

 既に失敗もそこにふくまれているから。」

 

「高みへの到達感がない。未だに私は追放された、と感じている。まだ途中なんだ。」

 

 

「時という長いテーブルで神の壺達が酒を飲む

 

見えるもの、見えない者の目を

 

彼らは飲み干す」

 

(ツェランの詩の一節だったはず。走り書きメモなので若干違っているかも)

 

枯れた長いひまわりを手に、細い棒の上を綱渡りするアンゼルムの映像。

真剣な、真剣な顔。一歩一歩確かめるように。

今も尚、彼はこうやって世界を綱渡りしているのだろうか。

 

「子ども時代は空っぽの部屋だ。

 始まったばかりの世界のように。」

 

 

 

魂だけになって様々な時代のアンゼルムと彼のアトリエで作品を間近で体験したような没入感。壮大な映像の叙事詩。

暗がりの中、ペンでメモせずにいられなかった。メッセージがどすん、と重くて。
 

 

 

最後のエンドロールになっても誰も立ち上がらない。多分立ち上がれなかったのだろうと思う。私も立ち上がれなくて最後になったから。

 

 

 

 

 

 

劇場に飾られていた各誌の記事。

 

 

 

 

 

 

3Dがあるのを知らずに、普通の上映を見てしまった為、3Dを近日中に観に行く予定。

 

 

 

 

 

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