図書館の本棚でいつもこの背表紙は目立っていた。白地にくっきりと黒い「青銅の弓」の題名と青い弓らしき紋様。何度か手に取りながら、本棚に戻してしまい、一度も開いたことがなかった。それでもよく目に入るその題名はなんとなくし残した宿題のように私の記憶の中に残っている。

 

遠方の読書会でこの青銅の弓を取り上げると伺い、あの宿題をやっつける時がきたんだな~とワクワクしながら手に取った。読書会がなかったら、手に取ろうと思ったかどうか・・。本当にありがたい機会!

 

(調べてみたら絶版で、中古品は10000円近く!図書館でまだ借りることができたからよかったけれど・・。油断していると閉架から除籍本にされてしまいそうだ。借りて良かった。)

 

 

読み始めて、一言。

こういう話だったのか~~!

 

中学生の私や高校生の私は、果たしてどう読んだだろうか?無理だったかもしれない。あの頃に読まなくて損した!とは思わなかった。むしろあの頃に読まなくてよかった。

 

これは中々に難しい一冊だった。

 

ローマの皇帝ティベリウスの統治下におかれたパレスチナ。18歳になったダニエル・バー・ヤミンは5年前に徒弟として売られた鍛冶屋から逃亡し、盗賊のロシュの元に身を寄せている。ローマの隷属からいずれ同胞を救い出す旗頭としてロシュに期待し、盗みにも慣れ、無法者たちとの暮らしが過ぎたある日、捨てて来た村のラビの息子ヨエルと双子の妹マルテースの姿を山で見かけ、迷いながらも残してきた祖母と妹レアの近況を知りたい気持ちを抑えきれず声をかける。

 

ダニエルとヨエルは、同じ志に燃え、絆を深めていく。

凛としてたおやかなマルテース(通称タシア)に惹かれていきながらも歴然とした身分の差を越えられないダニエル。

 

ヨシュア、ギデオン、ダビデ。ガリラヤの大地で闘い、勝利へと導いた英雄のような救世主を待ち望み、鬨の声を共にあげたいと望む若者たち。時を同じくして、彼らの元へやってくるナザレの大工、ヨセフの息子イエス。果たして救世主はロシュなのか、イエスなのか。

 

父や叔父の死をもたらし(間接的に母をも)、これまでの平穏な生活を一変させたローマ軍への滾るような憎しみ。

目には目を、歯には歯を。もう律法の習慣すら忘れかけているが、復讐への思いはどす黒く渦巻いてダニエルを支配する。彼の生きる目的といってもいい。

 

祖母が貧しさの中で死んでいった時、村の鍛冶屋として働きながら妹レアの世話をする道を選ぶ。もちろん心はロシュの元にあり、再び認めてもらう機会を待って仲間を増やしていくのだが・・。

 

奪うだけの盗賊の生活にはない、作り出す悦びを知り、すこしずつ変わってゆくダニエルが切なくもあり、その成長が愛しかった。

 

 

盲目的なロシュへの期待。

しかしイエスの言葉にも時折揺り動かされ、迷うダニエル。

ダニエルはイエスの説法に惹かれながらも、ただ一言、共に戦おう!と彼の望む言葉を言わないイエスへの失望とで揺れ動く。その揺れ動く様、導火線のように爆発しやすい危うさ。時に感情を抑えきれずに窮地に陥る荒々しさには共感しかなかった。なにかこう、自分を取り巻くすべてを、世界を呪いたくなるような、常に煙がくすぶっていて、ふとした拍子に口から炎となって毒が吐き出される、あの感じ。

 

自宅介護が佳境に入っていた時、そういった状況にはなかった同級生の集まりに行かざるを得なくなり、ちょっとしたことで毒を吐きそうになる自分に恐怖し、彼女達から距離を置いてしまったのだが、まさにあんな感じだったのである。自分が。

 

ダニエルが爆発するたびに、あ~あやっちゃったね、と思いつつ、すっきりした気持ちになった。(いいのだろうか・・?)

自分の不幸に酔っていると、何かに全ての原因と理由を押し付けたくなるのかもしれない。憎しみは視野を狭くもする。

ダニエルの一番の問題はきっとここ。

「ダニエル自身は、どこに属するのだろうか?」 (青銅の弓213頁)

それは長らく自分自身への問いでもあり、ジレンマでもあった。

 

 

ダニエルは新約聖書に出てくるイエスの成した奇跡のエピソードに現在進行形で立ち会ってゆく。

イエスはゼロテなのか。そうではないのか。イエスの説く御国とは?

 

(ゼロテとは・・訳注では「狂信的ユダヤ教徒」。「ゼロテ」は熱心の意味があり、新約聖書では熱心党と訳される。過激派、ユダヤ人社会における基本的には国粋主義者と出ていた。「彼らにとって、強大な多民族支配等の絶望的な状況の中でも、ユダヤ人独立王国実現を目指すことが、神の意思にかなう」ものであったようだ。)

 

御国をきたらせたまえ、と祈り、御国を待ち望む。

それにしても、「御国」とはなんと重いことだろう。国が侵略され弱体化し、吸収されていこうとしている彼らにとっては。

 

この世での幸福ではないところにある幸福。それを拠り所に生きる過酷さ。

 

法然の唱えた南無阿弥陀仏と「極楽浄土」がふと頭をよぎった。 

貧しく虐げられた状況では現世に生きることは苦しみでしかなく、解き放たれ極楽へ迎え入れられるその時だけを望みにかけて。

 

 

この物語でイエスの最期はどう描かれるのだろうか?

人々の噂で聞くだけなのか、もしかしたら、ダニエルはあの裁判や十字架の道行に遭遇するのだろうか、現在進行形で。

どんな風にイエスの死をその目で見て、受け入れていくのだろう?

 

裁判におしかける人々の群れの中にいるダニエル。

あんなにも狂信的だった人々がイエスを嘲る変わり身の早さに、勝手で浅はかな人間の顔をみるだろうか。ロバに乗せられ、あざけられる姿を見守りながら、なぜ彼は闘えと言わなかったのだろうか、と唇を噛んで悔しがりやり場のない拳を握るだろうか。

 

己を張り付けにする十字架を背負い、よろけながらのゴルゴダの丘を登るイエスの姿を、彼は見ていられるだろうか。その場を見届けられず去るのか、最後まで見届けるのか・・・。

 

十字架上で「Eli, Eli, Lema Sabachthani?」(エリ、エリ レマ サバクタニ 。ヘブライ語)「神よ、神よ、なぜ我を見捨てたのか?」とイエスの呻きを千切れるような思いで聞くのだろうか?その時、彼はそこで何を掴むだろう?

 

物語を追いながらも、もう一つの結末を別に考えながら読み進めていた。

 

しかし、ダニエルがイエスを理解するのにそこまでの時間はかからなかった。

 

 

ダニエルの苦しみに耳を傾け、心閉ざし命の灯を消そうとしているレアの元へとやってきたイエスをどう捉えられるかで、読後感が変わる気がする。

 

熱烈な感動の波がある方とそうでない方に。

素直に感動に身を任せられるほど、簡単な物語ではなかった、私にとっては。

 

訳者の渡辺茂男さんが、読者として感銘を受けながらも、翻訳するという作業になかなか取り組めなかったと書いておられる。

 

「とくに『青銅の弓』の背景となっている時代、つまり旧約聖書に書かれた時代を、自分のすぐ過去にもつ青年ダニエルの中に、私自身を没入させることが空想的にも不可能なことだったし、その時代の怒りと憎しみを、私自身がどう感じ取れるか、まったく自身がなかったからです。

 しかし、この作品をこの十年間に、何度かくりかえし読むうちに、ふしぎなことに人類の愛と憎しみの歴史の糸の末端に、私自身もつながっているという実感が湧いてきました。」 (訳者のことばより)

 

まさにそういうこと・・。あの時代の怒りと憎しみが私にも遠かった。

 

けれども、「人類の愛と憎しみの歴史」は今日も又くりかえされている。世界中で。

憎しみが憎しみを呼び、さらなる悲劇とさらなる憎しみを。

 

それを止めることは果たして人間に可能なのだろうか?

この本の中に描かれる愛と赦しを人が心に持つことができるだろうか。

 

私は未だに持っていない。それを探す旅の途中なのだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

表紙と挿絵は佐藤努さん。(画家さんだろうか?調べたけれど、検索にはひっかからなかった。)

これはまだ風景画なのだけれど、別の場面では何を描いているかパッとわからない抽象画のような挿絵がカッコよかった!

 

閉架書庫から除籍されないように、一年に一回は借りて残していきたい一冊ではある。

 

 

追記

 

自分が感動の波に乗れなかったのは、イエスの奇跡の取り扱いに抵抗があったからかも。ダニエルが憎しみを捨て、愛と赦しを知るその術がもう少し違った形であったら、波に乗れたかもしれない。

このあとに起きる十字架の道行と死と復活までの間に、あれほどの信仰を持っていた12使徒ですら、恐れ惑い、わが身可愛さに保身に走る。その道程をダニエルがどう受け止めるのか読んでみたかったのだと思う。

 

結局はこの箇所に行きつくのだけれども。

 

「何と明るいこと。」とレアがつぶやいた。「イエスが行ってしまわれた後でも。」

                                     青銅の弓 P338より

 

「青銅の弓」はダニエルとヨエル、そしてタシアが仲間である印として旧約聖書の詩編18篇からとりあげたものだった。

 

For who is God,except the Lord?And who is a rock, except our God?

It is God who arms me with strength, And makes my way perfect.

He makes my feet like the feet of deer, And sets me on my high places.

You have also given me the shield of Your salvation; 

Your right hand has held me up, Your gentleness has made me great.

He teaches my hands to make war, So that my arms can bend a bow of bronze.

 

神こそ、わが力強きとりで。

わが道を教えたまえり。

輪が足を雌鹿のごとくなし

われをたかきところに立たしめたもう。

神わが手に戦いを教えたまえば、

わが腕は、青銅の弓をも引く。   (青銅の弓 120頁~)

 

この後の部分が中々に好戦的で荒々しくて驚いてしまう。(本書にはとりあげられていない部分。)旧約聖書の時代は烈しい・・。

 

(中略)

I have pursued my enemies and overtaken them; 

Neither did I turn back again till they were destroyed.

 

敵を追いかけ、彼らに追いつくと、滅ぼしつくすまでは帰らなかった。

 

その後も敵を突きとおしたので起き上がれず足元に倒れた、などなど。

 

言葉をどう読むか?といった問題も含まれていそう。言葉通りに読むのか、暗喩と読むのかで違うし、強い思い込みで自分の都合のよいようにも読めてしまう。憎しみの鎧でがちがちのダニエルには、そうだ!あいつら一人残らずやっつけてやる!と更に憎しみの炎に火をつけるものだっただろうし・・、自らの敵が誰なのかと読み直せばまた違った意味をもたらす。言葉は、難しい。

 

 

村の生活に慣れてきたダニエルがふと思いついて青銅の小片を精巧なかなづちでそっと叩き、熱しながら、青銅の弓のブローチを作り上げるエピソードは、彼の中に未来への灯が灯った瞬間で、ぐっときた。

それをタシアに手渡した時、タシアは口もきけなくなるほど感銘をうける。(なのでとても繊細で美しいものだったのだろう、と読者は知る。)

 

やっとタシアの口から、言葉がいそいででた。「あなたが作ったなんて。」タシアの声はふるえていた。

「ダニエル、あなたが、りっぱな銀細工師になれるわ。鉄の塊を材料に仕事なんかするべきじゃないわ!」(246頁)

 

突然襲った悲劇と生活苦とで埋もれていたダニエルの真の姿。繊細で傷つきやすくもろくもある、芸術家の魂。だからこそ、憎しみと怒りのの鎧で自らを閉じ込めねばならなかったのかもしれない。「自分をとじこめるかごの桟が、音を立てて落ちるのを感じた。」という表現がそのエピソードの前にも出てくるけれど。(213頁)彼は5年ぶりに戻った村での生活の中で少しずつ自分らしさや安定を、人を愛するには瞬間の激情だけではなく、長い年月をかけて育てていかなければならないものがあると気づけたから、何かを生み出すことができたのではないだろうか・・・。

 

心病んだ身内と暮らすって、ともかく大変なのだからして・・。日々爆弾を抱えているようなもの。病んで弱った姿を見せることを武器にしているんじゃないか、罪悪感を持たせて。ずるいな・・とホトホト疲れ切ってしまう時もある。とても難しい。これはヤングケアラーの物語でもある。守られるべき子どもの時代に、守るべき大人の存在が消えた時、逃げるのか耐え抜いて心を壊すかのギリギリの線で、ダニエルは逃げて蓋をして見ないことにした。

 

鬱の母と機能不全家庭の中で右往左往していた10代20代の私は、全共闘運動のような熱に浮かされた運動に身を投じてがむしゃらに闘ってみたいような、破壊衝動を持っていた。身の内にいつも煙がくすぶっているようで、怒りや「なんで自分がこんな目に?」「こんなはずじゃなかった」という恨みつらみ。そんなものを全てをかなぐり捨てて何か崇高な使命の為に全精力を注いでみたい、小心者だからできないけど・・と考えていたものだった。(小心者でよかったし、時代が平和な時代でよかった~!)なので、ダニエルの一挙手一投足が私には黒歴史を一頁ずつめくっていくような気恥しさもあり、まだ激闘中でもあるので、ちと辛かった。

 

他者へ家庭の問題を初めて包み隠さずに相談出来た時に、まず一歩。そういう物語ともとれる。一人でがんばらなくていい、現代に言い換えるなら、行政やご近所や・・ちゃんと助けてくれる場所があるよ、と肩の荷が降りるような。家庭の問題って他人に負わせてはいけないと自分を律しがちだけれど、その手のプロが具体的な介入方法を持っていて、二人三脚、三人四脚以上?で生活の質はかなり変わっていく。行政に相談してからの力強い介入があった時に、ケアマネさんに後光が射して見えたので、タシアやイエスの姿が重なった。助けられながら、そして些少だけれども助けながら。助け合いながら生きる場所は、明るい。

 

とはいえ、鬱の人の経過って、ここからがまた長いのよ、と経験上知っているので!!三歩進んで二歩下がる、なんだよな~・・・と、この先のことを考えてしまって(フィクションなのに!)感動の波にまたまた乗り遅れてしまった。

 

 

イエスの死と復活の衝撃を更に乗り越えて、生活が続いていき、初めて芽生えた自分の為にやりたいこと、銀細工師になる夢をかなえたダニエルの姿がこの先にあるといい。そして、ダニエルの横にはタシアがいて、青銅の弓のブローチがタシアの胸にはいつも輝いていたらいい。レアは一進一退を繰り返しつつも、ゆっくりと心を開いて、真に愛する人とめぐり逢い、野菜を育て、織物を織って、愛する家族とともに生きられたらいい。ヨエルはエルサレムで学んで・・・などと夢想する。

 

 

・・・・追記が長くなりすぎ、まとまらない。きっと何度か読み返すうちにまた気づくことがありそう。読み終えてもそこで終わらない。常に頭の隅にあって考えて、また異なった目でパラパラと読み返す・・。疑問が湧いて調べたり。賛否があっていい。自分が変化すればまた感想もかわっていく。良書とは、そういうもの。