柳宗悦唯一の内弟子 鈴木繁男展 -手と眼の創作 @日本民藝館へ。

 

日本民藝館の入り口には白木蓮が咲いていた。花の盛りはとうに過ぎて、はらはらと散ってほどけてゆきそうな白い花弁が、紺碧の空に美しく映えている。

以前には全く気が付かなかった。

 

 

 

会期は20日に終了。こんなにも遅くなってしまったのは、「柳宗悦唯一の内弟子」という言葉におそらく自分はとても浅はかなのだが、嫉妬していたのだろうな~、と思うのだ。(冷静に考えると、自分、何様なのだ?!なのだが。いやもう本当に浅はかすぎて恥ずかしい。)

 

会期終了前に、なんとしてでも出かけて行かなければ!と足を運んでいった。

 

金蒔絵師の長男として静岡市に生まれた鈴木繁男は幼少期から漆芸を仕込まれ、模様を生む能力を育んでいた。その才能を見抜いた柳は唯一の内弟子として彼を入門させ、工芸や陶芸を視る眼、直感について相当厳しく叩き込んでいく。開館前の日本民藝館の陳列ケースや展示台への拭漆塗りも彼の仕事。

雑誌「工藝」の装丁で、和紙に漆で描かれた表紙は民藝運動の関係者や読者を驚かせ、注目を浴びたという。

 

 

・・・あ~~~~~~~~~~・・・これ、誰が描いたか知らなかったけれど、好きだった・・・!!これを描いた方だったのか・・。それは致し方ないよ。。

 

まずは一階の収蔵品の展示を見ながら心を整える。

バーナード・リーチや浜田庄司らの作品が飾られており、101歳で今年1月31日に世を去った柚木沙弥郎の型染めの展示コーナーもよかった。

 

陶磁器を視る眼が残念ながらない・・。民藝館を知るまで興味のなかった世界で、我が家の食器はiitala社などの可愛い洋食器寄り。そんな私だけれど、河井寛次郎展で寛次郎から教えられたように「眼で聴き、耳で視る」ように、私の全身で味わえば少しは‥少しはよさがわかるのでは?と祈りながら。

 

リーチの作品は可愛いなぁ、リーチの絵を柳先生の指示で表装なさった掛け軸、なんともいえず素敵!と見て回る。

 

古い陶磁器の良さがわかるかといえば、まだまだなのだけれど、すこしずつ・・楽しめるように。嬉しい!

 

 

そしいよいよ!!二階の企画展へ。

 

階段を上がってすぐのフロアには、鈴木繁男の装丁や漆絵の展示が。

 


童女図 紙本漆絵  1945~1954年(写真はメイン展示室に展示されていたもの)
和紙に漆で描かれた黒と赤の世界。ぽってりと艶々。漆の盛り上がりは絵の具にはない美しい艶。写真にはどうしても出ない。あの艶めいたなまめかしい黒と赤・・。ため息がでた。

 



工藝の表紙、工や藝の文字が細く踊るように跳ねて、艶めく。美しいなぁ・・・。漆の厚みがなんともいえなくいい。


あ、これも、あれも鈴木繁男さんの装丁だったのか、と参ってしまう。


私の大好きな「藍絵の猪口」の装丁も。。

初めて観た柳先生の宗教関連の書籍もピッタリな装丁!あーー、これは先生どんなにかお喜びになられただろうか。。

メインの展示を見る前に、長椅子の近くに設置されている「工藝」最新号と図録をパラ読み。
なんといっても今回鈴木繁男氏とは知識0のまっさらの初対面。

やはり先にどんな方でどうやって柳先生と出会ったのかぐらい知りたい。

気軽に読み始めて、鈴木氏の「こし方の記」8行目でガツンとやられてもうダメだった。
長椅子はあいにく塞がっていて、横の窓際に立って読んでいたのが、ズルズル座り込んでしまうほどに。

鈴木氏のお母様は三重県鳥羽のお寺で育ち信心深い方だったそうだ。そのお母様は白磁の壺や曼荼羅などをお持ちでとても大切になさっておられた。

「母は只一度だけ、柳宗悦先生に会った事がある。私がご縁を受けることに涙を流していた。私はこの母の直感に深い因縁を見た思いがした。後年、その母は戦災死を遂げるのだが最后までしっかりと身にゆわえ着けていたのは、柳宗悦の著書だけであった。」                              (こし方の記 鈴木繁男 図録102頁)



他の何かではなく、柳先生の本だけを身体にしっかりとゆわえつけて、あの凄まじい中を‥?柳先生の著書が彼女にはそれだけの価値があり、先生の言葉があれば、何があっても生きていける、と思うからこそ。そして、そのまま人生を閉じる・・?

 

あまりのことに、立ち上がることすらできなかった。

私がもしそんな状況に置かれたとして、果たして同じように出来るかというと分からない。分からないけれど、柳先生の言葉はそれ程に人を生かす力がある。私自身もまたそのようにして生かされてきたから、こうして、ずっとずっと先生の足跡を辿っているのだもの。

鈴木氏と柳宗悦の出会いはこうだ。

鈴木氏がゴッホ好きなことから当時静岡市に在住の式場龍三郎氏を訪ねた。そこでバーナード・リーチ、芹沢、黒田辰秋らの作品に出会い、その時初めて「民藝運動」という言葉とも出会う。そしてその時の印象を和紙に描きつけて式場氏に送ると、式場氏はそれを柳先生に見せ、ある日、鈴木氏の元へ立派な封書が届く・・。裏には「柳宗悦」と署名がされ、中には「是非会いたい待つ」。

 

・・・・・・・・・・なぜだ?なぜ私はその時代に生きていなくて、鈴木繁男氏じゃないのだろうか・・・。羨ましすぎて倒れそうになる・・・。言われてみたい、私も。柳先生に「是非会いたい待つ」と。

二、三日たつと大きな茶箱が届き、その差出人は浜田庄司。(!!!!!!)当時、浜田庄司を知らなかった鈴木氏は問い合わせまでして自分宛で間違いないと確認してから封を開けると、おびただしい焼き物が現れる。追ってハガキが届き、「私の二番手の物だがよろしければ台所でお使いください。」とあったという・・・!!!!!(それ、絶対二番手のものばかりじゃなくて、一番手のものも入ってたんじゃないのだろうか?私だったらそうする・・。そして浜田庄司に送るように要請したのは柳先生で、おそらく本物を日々使うことによって感性を磨こうとのお考えで・・!!エピソードが強すぎる・・。)

 

昭和10年の春。鈴木氏22歳、柳先生47歳。

 

こうして鈴木氏は柳先生の門下へ。柳先生のお住まいであった民藝館西館の二階の3畳の部屋で彼の生活が始まる。

 

開館前の民藝館の陳列ケースの拭漆塗りの作業をしていると、柳先生が働きぶりを見に来ては中国の僧やトルストイ、ウィリアム・ブレイクの言葉を聞かせるともなく聞かせていく・・。

 

「君が見た物の中に君がいるのだ」

「全体作用しないと何事もできない」

 

先生の言葉の重みよ。それらは先生が世を去られた後もずっと鈴木氏の中に残って「現在も尾を引くものがある」と記している。

 

ああ、そんな風にしてあの陳列台は完成していったのだな。あの場所で皆生きていたんだな・・・。座り込んだまま涙が溢れてとまらなくなってしまった。(マスクよ、ありがとう)

 

私は先生に会うことは叶わなかったけれど(私が生まれる7年前までご存命だったと思うと切ない、いやもっと長生きなさったとして、会えるわけもないのだが。)、こうやって先生と出逢った方々から、先生の言葉を知ることができる。その言葉に揺り動かされるなら、私はやはり先生と出逢ったといってもいいのだと思う。

 

そうか、「君が見た物の中に君がいるのだ」それなら、こうして私が今、片っ端からいろんなものを観に行っているのは、あながち間違ってなかったんだな。

 

きっと見ているうちに、視る眼が生まれていくのかもしれない。

 

 

(図録、他にも盛りだくさんで読み応えがあった。多分しばらくそばに置いて読み返す本のひとつに。)

 

 

 

ひとしきり感情の波がおさまるのを待って、ようやくメインの展示室へ。

珍しく多めに撮影OKで嬉しい!

 

 

「工藝」の表紙を屏風に。

なんと、「工藝」の表紙、これを印刷にしたのではなく、1000枚準備したそうなのだ。(図録より)

柳先生・・・それを要請しちゃうとは・・いやこれは絶対に印刷ではダメなのだけれど、1000枚って!!

 

そのうち300枚はどうしてもしくじるし、同じ図案を一日50枚を仕上げて、800枚描く頃にようやく自分が思っていたように描けるようになる、とインタビューで答えていた。気の遠くなる作業。それを22歳から27歳の間にコツコツと続けていたのか・・。すごい、すごすぎる。

 

柳先生に見込まれる、ということは・・とてつもなく光栄で素晴らしいけれども、反面、容赦ない要求に全力で答えねばならない厳しさを伴う。それに応えて、謙虚に黙々と没頭してこられた鈴木氏に頭が下がる。(羨ましい!と軽く言ってる場合じゃない。それだけの厳しさに我が身を置いているか?!)

 

 

 

芹沢工房・鈴木氏の絵付け。

 

柳先生の装丁にも使われたデザインが掛け軸にもなっていた。うう~なんて美しいのだ。

柳先生が表装なさった棟方志功のクリスト像を彷彿とさせる。

 

(↑柳先生の表装されたクリスト像、先生がとても気に入っておられて、いつか観たい!と願っていたもの。棟方志功展でこの場で動けなくなるほど感動した・・。)

 

 

樺細工の文字の意匠。湯呑はぽってりと温かみがあって、食後のお茶がおいしく入りそう。

 

作陶の道へ進みたい気持ちが芽生えたものの、中々柳先生に言い出せず、バーナード・リーチを通してお伝えして人を介して伝えるような気持ちでやっているけるのか、と厳しく柳先生から叱責されたエピソードも。

 

そんな思いをしながら、これらの器を。

ほとばしるような迫力!

 

 
 

用の美を徹底して叩き込まれた鈴木氏の手から生まれた器も文字もみなあたたかい。

 

戦争が終結し、病床にある柳に頼まれ、たったひとりであの民藝館の土の下に埋められた品々を掘り返し、民藝館の再開まで準備を整えた鈴木氏。

 

柳先生も亡くなり、その後の民藝運動を支え、晩年には網膜症が進むも、「沢山見すぎるくらい見ましたからもう十分です。」「将に『美・醜』をはなれるとはこのことかと自覚を新たにしました。今は老后を静かに通ることだけを念願しています。」(最晩年の手紙より)そのような心持でこの世を去られた。

 

柳先生が円空仏と木喰仏について論じておられた「美醜不二」が思い出された。

 

「今でこそ我々はその彫像の持つ著しい美しさに讃嘆はするが、決してそれ等の仏躰は芸術的な美を求めての仕事ではなかった。(略)即ち、美醜への判別〈aesthentic cobsciousness〉がそんな仕事を育てたのではないことである。つまりそれ等の仏躰は美醜〈beautiful or ugliness)の判別〈judgment〉の彼岸〈beyond〉で生まれているのである。そうしてここにこそ仏僧としての体験が豊かにあったと云ってよい。即ち美醜未生〈unborn〉とか、美醜不二〈undeifferentiated〉とかの境地からそれ等の仏躰は生まれているのである。」 (木喰上人 講談社文芸文庫340頁)

 

不二とは仏教用語で、「異ならないこと。差別のないこと。現象的に対立する二つのことが根底的には一体であること。」を意味する。ならば「美醜不二」とは、美も醜も相対立するように見えるものの、根源的には一体であると。それを読んだ時には難しすぎてさっぱりピンとこなかったのだが、あれだけ柳先生に美とはなにか?を徹底的に叩き込まれた鈴木氏が、最晩年には美も醜も判別のつかない世界へたどりついて、静かに美醜を手離したのだと思うと、まさにその「美醜不二」の彼岸へ行きつかれたのではないのだろうか。

 

貴方がたったひとり、引き受けてくださったひとつひとつのおかげで、今、私はここで命が生き返るような時を何度なく過ごしてきました。

 

いくら感謝してもし足りないような気がする。

 


 

展示を見終わると午後の陽が民藝館の入り口のガラス戸を通して美しい光のゆらめく虹を生じさせていた。私はこの光景が好きで好きで、つい見入ってしまう。撮影不可なのが本当に惜しい・・。民藝館のInstagramよりお借りしました↓

 

 

 

儚く散ってゆく光の描く絵画を、柳先生も楽しまれたのだろうか。

 

 

民藝館の入り口を外から。このガラスが光を通すとあの虹になるのだなぁ・・・。

 

なんだか立ち去りがたくて、「君が見た物の中に君がいるのだ」その言葉に背中を押されるようにして、もっとちゃんと視てみよう、と木蓮の花を視る。

 

民藝館の白い壁と白い木蓮の花。これまで眼にも入ってなかったものが、心に沁みとおってくるようだった。

 

そして、ふと大鉢に視線を移すと、冬枯れの睡蓮の枝や枯れ葉やうねる藻、散り落ちた木蓮の花びらが水面下に沈められて全く異なる様相を醸し出していた。

 

 

 

じっと視ているうちに水面に映る民藝館の壁の模様に気が付く・・。

柳先生がご存命の頃にもこの大鉢は同じようにあったのだろうか?白木蓮を植えられたのも柳先生だろうか。先生がご覧になったかもしれないものと同じものを見ていると思うと胸がつまる。

 

 

冬枯れの枝、大鉢の水面に映る壁、そして壁際にそうっと佇む石碑(仏像)あ~・・これは美しい。これはいいなぁ・・・。

 

いつも展示で胸が一杯でゆっくりみることもなかったお地蔵様。

誰かがお賽銭を。私もお賽銭をそっと置かせて頂き、苔むしたお地蔵様にここへ来れた感謝をお伝えしてから、ゆっくりと帰路についた。

 

「君が見た物の中に君がいるのだ。」

 

―――そうだ、私が見た物の中に私がいるのだ。

 

柳先生の言魂の強く大きな響きに包まれながら。

 

 

 

3月20日まで!