「日本人の哲学」という大層な題名をつけてしまいました。僕が考える「哲学の概念」とは、「世の中の道理の複雑さを理解しようとする試み」です。人の思考力、理解力の限界に近づくのが哲学の目的です。その概念にて近づけているかどうかは読者の皆さんの判断にお任せいたします。私なりの哲学にお付き合いいただければ、幸いです。
ソクラテスは「無知の知」に気づいていない有力者に「無知」を気づかせようとして、顰蹙を買い、裁判の末死刑を宣告され、毒死しました。知識が豊富な人ほど「自分はわかっている」と思い込んでいるものです。ソクラテスはおせっかいにも、知識が豊富な有力者に「無知の知」を気づかせようとしたのです。例えて言うと、1から1000まで知っている人に、「あなたは1001以上の数字を知らないでしょう。自分が知らないことがあると言うことを知ることであなたはより賢くなれますよ」という主旨のことを伝えたかったのでしょう。しかし、残念ながら知識が豊富で、それを自尊心の基にしている人にとって、「あなたの知識は不十分ですよ。まだまだ無知ですよ。」と言うのは、相手からしたら侮辱に感じるのでしょう。
人はどんなにIQが高くても、どんなに死ぬほど勉強をしたとしても、どんなに科学技術が進んだとしても、所詮「人」でしかありません。人の脳にはそもそも限界があるのです。その限界を弁えず、人を含む生物の遺伝子をいじったり、宇宙に宇宙船を飛ばしたり、AIを作ったりできることで、人が自信過剰となって、「人は神に近づいている。」「人よりも賢い生物はいない。」「神を信じている人は科学を理解でいないバカだ。」などと思い始めたら、本当に自惚れです。
僕はデビッド・ヒュームの哲学が人の脳の能力を一番よく表現していると思っています。そのヒューム哲学の中で「生気」と言う概念が出てきます。賢い人は何かを理解したり、何か新しい発見をしたり、何か新しいものを作り出した時に、強い生気を伴って「わかった!」「見つけた!」「できた!」と考えます。その生気が強ければ強いほど、「自分にはすごい能力がある。」と言う気持ちになります。それが人を自惚れさせる原因です。強い感情を伴う思考ほど「生気」が強くなり、その思考がより確かなものに感じるのです。だから、怒っている時ほど「自分の考えは正しい。」と思い込みやすいのです。
僕はこの自惚れが個人的なものなら良いのですが、人類全体としての自惚れになったら危険です。「この宇宙の起源を人は解明できる」「人は生物を新たに生み出せる」「科学技術がこのまま発展すれば、さぞかし素敵な世界が出来上がる」などと思い込んでしまったら、それこそ深刻です。人にそれほどの能力があるのなら、まず人類全員を幸せにできるはずです。犯罪、自殺、戦争すらなくせないのに、何を自惚れているのか、と言う話です。人は幸せを目指して、生きています。しかし、どうしたら幸せになれるのかを考えているのにもかかわらず、犯罪や自殺や戦争をなくすことができないのでしょう。「人がなぜ幸せを求めるのか」「人の幸せとは何なのか」「どうしたら人は幸せになれるのか」「人の幸せを阻んでいるのは何なのか」これらが解明できていれば、人類全員を幸せにするように、近づくことは可能なはずです。それらがまだ解明できていないからこそ、犯罪、自殺、戦争が無くせないのでしょう。
まずは「人はなぜ幸せを求めるのか」について、考えていきたいと思います。次回をぜひお楽しみにしていてください。