哲学を語る時に欠かせないのが、「神」の問題です。

まず、議論する「神」の概念を確認しないと、話が伝わらないので、ここで話す「神」の概念から話します。

日本では「神」というとかなり幅広い概念になります。天照大御神さまに始まり、多くの神が存在します。神社で祀られている日本国のために尽くされた方は亡くなった後に神となり崇められます。日本では西洋でいう「聖人」が「神」となり、信仰の対象という意味での神になっています。

一方天御中主さまのように、キリスト教などの一神教と言われる宗教における創造主に似ていて、元々人ではない神さまもいます。

また日本では動物や植物などの生き物つまり、命自体が神と見做されたり、石や山などの生き物ものでないものも神と見做されたりします。つまり世界に存在するものに神が宿っているという考えです。

そのような中、私が哲学の中で対象としたいのは、このような幅広い神ではなく、人が「神」と呼ぶ時にそれらに共通する抽象観念は何かということです。「神がかっている」ことを「神っている」と言われることがあります。これはどういう意味でしょう。ニュアンスとして伝わってくるのは、「人を超えている」という意味ではないでしょうか。この「人を超えている」ということが「神」の抽象観念つまり内包としての概念ではないかと私は考えています。

亡くなった偉人は「人の手の届かないところに行ってしまった」という意味で、「人の能力を超えたところにいる存在」です。天御中主さまは、世界を創造したという時点で「人を超えています」。世界に存在する全ては、それを生み出すということを人にはできないという意味で、「人の能力を超えた存在」です。

次に「人を超えている」とはどういうことでしょう。「人の能力を超えている」「人の想像力を超えている」「人の理解を超えている」などが考えられます。

私が考える「神」の概念は、「人の物理的な能力、脳の認知能力を超えた何か」です。例えば、人は地球も宇宙も作ることはできません。遺伝子をいじることができても、最初から生物を設計することはできません。なぜ宇宙が存在するのか、なぜ人が存在するのかを理解することは永遠にできません。この人の力の限界を知る=神を知るということではないでしょうか。人を超えた何かを認識することで、人は謙虚になります。人はどうしても「自分には能力がある」と思うと快感を感じるために、ついつい自惚れがちです。生成AIができようが、スマホでいろいろ便利になろうが、ノーベル賞を取ろうが、所詮人の能力の中での話です。人がどんなに進化し、進歩しても、必ず限界があります。それを認識することが大切であると、私は思っています。

哲学をする時に、この考えがまず重要になります。人の能力には限界がある。だから、あくまでもその能力の限界の中で、あれこれ考えればそれで十分であるということです。

私は西洋哲学の中でも、デビット・ヒュームの哲学は日本の哲学の中に組み込んでも良いと考えています。なぜなら、ヒュームはその著書「人間本性論」の中で、人の脳の認知能力がどのように働いているかを述べているからです。つまり、人の脳がどのようにプログラムされているかを述べた哲学だからです。脳のプログラムは多少の個人差、民族間差、地域差はあるかもしれませんが、それは多寡の問題に過ぎず、人類の脳は皆、根本的には同じようなプログラムになっているはずです。だから、スコットランド人の考えた哲学であっても、地球上で普遍的であるため、基本的なことは日本人でも変わらないはずだからです。

次に「哲学」は何かという問題です。大体哲学の本は読んでいると眠くなります。なぜなら、その内容を理解するのに頭が疲れるからです。つまり、哲学はその内容が複雑で理解が難しいため、人に眠気を催すのです。哲学とは「複雑で難解なことを理解する学問」です。

では、数学や量子力学のような物理学、AIを作るような情報工学は、昔なら「自然哲学」として、哲学に入ったと思いますが、現代ではそれは「科学」と言われ、現代でいう「哲学」とは分けられています。では、現代でいう「哲学」、昔でいう「精神哲学」とはその複雑さと難解さ以外に何があるのでしょう。

「宇宙はなぜ存在するのか」。これは人の能力を超えた問題なので、考えても仕方ありません。「愛とは何か」「美とは何か」これらは正に哲学の対象になりそうです。人は恋愛したり、何かを見て美しいと思ったりしますが、どんな時に愛を感じ、どうしてその何かを美しいと感じるかを考えることは、当たり前に感じることを根底から見直すという意味で、難解で複雑です。

しかし、それも結局そう思うように人の脳はプログラムされていると言ったら、あっさり結論が出てしまいます。では、なぜそうプログラムされているのかを問うたら、それは「神の領域」つまり、人の能力を超えた話になり、考えても無駄になります。この人の能力と神の領域のギリギリのところを考えるのが、正に哲学でしょう。

そうなると結局哲学とは、人が自分の脳の能力の限界を知る作業とも言えるのではないでしょうか。ここまではわかるけど、これ以上はわからない、その限界を探り続け、人の脳の能力の限界を知ること自体が哲学であると、私は考えます。だから、哲学をやればやるほど、人の限界を知り、謙虚になっていくはずです。「俺はこの分野の知識はこんなに詳しい。すごいだろう。」と偉そうにしている人のことを、「無知の知」という人の脳の能力の限界を知っている人は「ああ、この人は自分がわかっていないことをわかっていないな」と思って、多少見下しても、人の中では大した差ではないと考え、私は本当の哲学者ほど謙虚であると信じています。

私はヒューム哲学、アドラー心理学に加え、自分で考えた理論を組み合わせた哲学体系を築き上げました。もちろん、それが正しいと言い切れるだけの能力を私は持ち合わせていません。しかし、せっかく作った哲学体系が日本語を話す人の中のどなたかの参考になればと思い、このブログに綴っていこうと考えています。