放送作家の養成番組? | 今だから話せるウルトラクイズ裏話

今だから話せるウルトラクイズ裏話

17年にわたって放送された「アメリカ横断ウルトラクイズ」。構成作家として最初から最後まで関わってきました。放送出来なかったエピソードや裏話を思い出すままに綴っていこうと思います。

メリカ横断ウルトラクイズのテロップを見ると、最初に構成という文字が現れ、私達、番組構成者の名前が出てきました。
視聴者から見れば、テレビで構成という文字を良く見るけれど、一体どのような仕事をしているのか、理解できない方もいるのではないでしょうか?

これは、私の仕事でもあるので、本日はこの内容について簡単に書いてみたいと思います。

レビ番組の構成者は、職業欄では放送作家と呼ばれて歴史はテレビの創成期から存在しました。
本来は映画と同じようにテレビ番組の脚本を書いていましたが、番組の中にはドラマ以外にも、情報番組、音楽番組、バラエティー番組、ドキュメント番組など、分野も多岐にわたっていますので、それぞれに企画や内容に関わりながら、台本を制作する役割を担当します。

在の番組では構成者も1人ではなく、複数名が名前を連ねてますが、私達のウルトラクイズが開始された70年代には、1人ないし、2人くらいが一般的でした。
でも、番組が大型化するに連れて、多数の頭脳が必要になって、次第に増えていったのがテレビ番組の歴史と言えるでしょう。

達がテレビ番組に関わった頃には、構成者は1人でしたから、企画会議を経て、台本は1人で書くものと決まっていました。
でも、1人の能力には限界がありますので、ウルトラクイズのような番組では、毎回5~7人くらいの放送作家が参加していました。

初は、私が所属していた制作会社の企画でしたから、我々の作家グループが全員参加で、10人くらいは居たように記憶しています。
しかし、回を重ねる内に、マンネリを防ぐ目的で、新しい血を入れるように日本テレビから要求され、何人かの放送作家が参加してきました。
ところが、新しい人達は拘束時間と、要求の割りに報酬が安いと不満が出て、次々と脱落してしまったのでした。
その結果、5年を過ぎた頃には、全員が創設メンバーに戻って、以後17回まで、同じ釜の飯を食った仲間の作家が参加してくれました。

ルトラクイズのアイディア会議は、週に1、2回、3~4時間行われました。
この会議にはPが2人、Dが4、5人。ADが2人、構成者が5~7人、それに司会の福留さんも時間の許す限り参加していました。
一番組の会議としては、かなりの人数です。
そこで、前の会議で宿題になっていたチェックポイントのクイズ案が検討されます。

成者は、自分のアイディアをコピーしたものの説明をしなければなりません。
つまらないと、誰かが遠慮なく「没」と否定の声を上げます。
若い作家などは、業界の先輩達が挙げるこの声にビビってしまいます。
ウルトラクイズの会議では、このくらいはへっちゃらにならないと、1人前とは言えません。

中には何故「没」なのか、納得できずに反論して、険悪な空気に包まれる会議もありました。
でも、思い返すと、そうした熱い議論のあった時には、良いクイズ形式が誕生していたように思います。
例えば「大声クイズ」などは、最初は冷笑もので、議論が盛り上がって、ようやくあの形式に落着いたのでした。

大声クイズ


また、他人のアイディアを否定ばかりしているPやDにも、アイディアを出すように申し込み、ある時期から全員がアイディアを提出するようになり、番組は面白く展開するようになりました。

の会議ではクイズ問題も検討されていました。
クイズの制作者は会議には参加しませんが、その前に私の会社内で、クイズの選考をやり、そこを通過した問題が会議で検討されていたのです。
クイズ会議では、過去に出されたクイズや、他のクイズ番組で出された問題をチェックしていました。
この会議では福留さんが、その問題は「△△で、○○が答えた」という固有名詞を出して、否定する事がありました。
私は「本当かいな?」と、半信半疑で、過去のビデオをチェックするのですが、それが本当の事が多かったので、彼の記憶力の良さに驚かされた事がしばしばでした。

のようにウルトラクイズの準備は進行し、長寿番組となっていったのです。
最初の、構成作家の話に戻りますが、毎年クイズ問題を創るために、一般から問題制作者を募集しました。
学生が半分、その他は、クイズ好きの主婦やサラリーマンで、40人~50人を採用して、毎週10問くらいのノルマを科して問題を創っていただきました。
中には、ユニークな問題を創る人もいて、才能がある人には、クイズ形式のアイディアも出してもらい、放送作家の仲間入りした人も10指に余ります。
その意味では、ウルトラクイズは構成作家養成番組だったとも言えそうです。

自由の女神2