ヒット番組の宿命 | 今だから話せるウルトラクイズ裏話

今だから話せるウルトラクイズ裏話

17年にわたって放送された「アメリカ横断ウルトラクイズ」。構成作家として最初から最後まで関わってきました。放送出来なかったエピソードや裏話を思い出すままに綴っていこうと思います。

メリカ横断ウルトラクイズは1977年に誕生して、トータルで17回に亘って放送されました。
手前味噌ですが、70年代を代表するようなヒット番組と言えると思います。
テレビの業界で言えば視聴率の高い人気番組と見られています。

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いにも私個人としては、ウルトラクイズの誕生から関わった放送作家として、この番組が私の放送作家人生で、かなりのメリットとして役立っていたのは事実です。
テレビ業界に限らず、世の中では世間的に成功する品物を作り上げた場合、

「実はあれは俺が作った」

という権利を主張する人間が登場するのは自然の流れです。
そんな争いが起こらないように、「著作権」とか「商標登録」などの制度があって、これが本家争いのブレーキになっている事と思います。
テレビの業界では、似たような番組を作っても著作権でもめるような事はそうそうありません。
でも昔から他のヒット番組に似せた番組が作られても、視聴者の方が利口で、「パクリ!」という一言で片付けられ、パクリ番組が永続きしたためしがないのです。

からウルトラクイズのように何年もヒットが続くと、

「実は自分はあの番組に関わっている」

と自称関係者が出てくるのは自然の成り行きかもしれません。

それどころか、自分が番組そのものを考えた、というような人間が出てきても不思議ではないのです。
それに一々反論する必要はありませんが、私のように最初から最後までスタッフとして関わった人間は、そんなに数多くいません。
ですから、一緒に働いた人間はほとんど覚えているのですが、思いもしないところで自称ウルトラクイズのスタッフだったと言う人に出会う事があるのには驚かされます。

中でも驚いたのは、
「私がウルトラクイズを考えた時、中々企画を解ってもらえなくて苦労したよ」
と、私に自慢みたいに話したテレビ関係者がいました。
確かに最初の頃、手伝いに来ていたテレビマンですが、知らないところではそのような話で自分の能力を高く売り込んでいるのでしょうね。

もっと驚いたのは、
「羽田でジャンケンをして、勝った人を飛行機に乗せるというアイディアは僕が出したんだ」
というスタッフもいました。
勿論、そんな事実はまったく存在しないのです。

それどころか、あのジャンケンが生み出されるまで、最初の放送作家やディレクターがどれほど苦心して生み出されたのか、その辺の事情をイヤと言うほど味わった私としては耳を疑うような話でした。

でも、
「ヒット番組ではよくある話だ。一々気にしていては身が持たない」
と先輩に聞かされた事を思い出します。

かに長年に渡って作られた番組ですから、関係した放送作家もクイズ制作者も多数いるのは確かです。
それらの人々を全面的に否定する気は毛頭ありません。
それどころか1度でも関係したスタッフが、それを自慢出来る番組というのは今や稀少価値と言えると思います。
その意味ではどんどん関係者であったことを主張してください、と言いたいです。

は40年以上もテレビ番組を作る世界に籍を置きましたが、それでもこの番組に関わりが持てたのは、幸せな事だったと心から思っています。
ですから、このブログを見て、昔の関係者がコメントを寄せて下さるのを待っているような気もいたします。

自由の女神