6月12日に,40年前宮城県沖地震がありました。職場では初めてシェイクアウト訓練を行いました。

今週の土曜日には防災訓練があり,防災授業をすることになっています。

以前作成した資料のことを思い出しましたので,載せたいと思いました。

まだ公には公開したことのないものです。この先どう利用できるかも考えてはいません。ご感想などありましたら教えてください。

 

「 砂 跡 」

 
みなさんは海が好きですか?
先生も泳ぐのが大好きですから海に行くのは好きです。
けれども七年前から海に入っていません。

これは砂浜にある階段です。階段にきれいな筋があり,砂が溜まっていると思いませんか。
ここは、荒浜です。東日本大震災から二ケ月後に訪れて、波の跡のついた階段を写しました。
 
皆さんが生まれてからすぐとても大きな地震がありました。
それが,東日本大震災です。
二〇十一年三月一一日午後二時四六分のことでした。
 
先生は、その時、一年生の担任でした。一年生全員午後二時四五分に校庭に集まって集団下校のために二年生を待っていました。その一分後に地震が始まったのです。校庭でみんな集まっていましたから余裕があって、横に揺れる様子を楽しんでいる人さえいました。しばらくすると家の瓦が落ちる様子も見えたようです。先生は、始めて経験する長く大きな揺れに驚きました。校舎に入り、二年生を助けに行くと泣いている子がたくさんいました。「緑の楽園」という高台にある学校だったので四〇分ぐらいしてから黒い波が見えて、「津波だ!」という声が聞こえました。
この地震は大変大きな地震で、日本で最大の地震となったのです。地震により津波がおきました。その高さは十五メートルにもなりました。
 
とても広い範囲でとてつもない大きな被害となりました。死者行方不明者は一万八千人以上。壊れた建物は四〇万件以上でした。

先生は被害の大きかった石巻というところに友達がいましたから、四月の初めに会いに行くことにしました。学校の保護者の方から支援物資を頼まれました。キリンというビールの会社からホカロンも預かり、届けにいきました。

 
石巻に着いて、その変わりように驚きました。
石巻の人たちはこんな災害を受けた中で仲良く過ごしているように先生には見えました。倒れた建物の近くで笑顔でお話をしているのです。
家族で湊小学校の避難所に支援物資をおいてきました。

 
保護者の方から渡されたきれいに手入れされた洋服は飛ぶようになくなりました。
こんなひどい災害の中でも、石巻の地域の人たちの地域でのつながりを感じることができました。

 
支援物資を受け取る人たちの様子を見て,震災に負けない生きる力を感じました。
そんなことを感じましたが、この震災で悲しい思いをした人がとてもたくさんいるのです。
その中で、先生が感動したことをお話しします。それは、いのちを守ってくれた建物のことです。
 
その建物は荒浜小学校です。今はこの学校は震災を伝える建物(震災遺構)として保存されることになりました。
 
この写真は五月に訪れた時です。
この学校は四階建てで、二階まで津波が来ましたが校舎の上の階や屋上まで避難ができて、子どもたちの命を守ってくれた建物です。誰もいない教室にこんな書きおきがありました。
 
卒業したみなさんが、黒板に残した言葉です。
子供たちを守ってくれてありがとう。荒浜小学校。
 
巨大都市でも、津波が来ても人々を守れるように避難所となるしっかりした校舎を作っていたのです。その役目を 果たしてくれた荒浜小学校の校舎に先生もお礼をいいたいと思いました。
もう七年たちますが、生活を立て直すためにがんばっている人たちがまだたくさんいます。
 
支援が少なくなっている最近では、被災地の苦労が今もあるのです。支援がなくても,自らの力で、もとのような生活になることが,本当の復興になるということでした。

この東日本大震災では、東北地方の人たちの相手を大切にする姿勢が,日本全国から,そして全世界からもとても賞賛されました。日本に絆という言葉を根付かせました。
人と人との絆を強めた東日本大震災でもあったのです。
 
多くの悲しみがあったということも忘れずに、そこで生きていた人々の東北魂をみんなには忘れないで欲しいなと思います。
 
先生は海と共に生きている人々を応援していきたいと思っています。
みなさんもお家に帰って、東日本大震災について聞いてみてください。たいへんだったことや心温まる思い出をたくさん話してくれると思いますよ。先生からは東日本大震災のお話でした。