「済州島を買い取ろう」と言った小沢一郎は日本人か?【過去ネタ・補足】 | 最初からクライマックス!

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色んなコトに怒ってます。

http://h21.hani.co.kr/section-021046000/2008/04/021046000200804030704039.html

↑アメーバーがハングルに対応してなくて載せれず。

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[済州4・3事件60周年]
大阪の証言「虐殺の島で生き残った」



武装隊の総司令官、李徳九(イ・ドック)の姪など、

初めて4・3事件の証言に立った大阪の‘済州人’たち

▣大阪=パク・スジン記者
▣角南圭祐記者(フリージャーナリスト)

「これで5回目だ。今回も行けなければ、いつ死ぬかもわ

からない」10月だったが、風が冷たかった。夜8時、釜山港。

巨大な貨物船何隻かが幽霊船のように漂っていた。今回

は無事に海を渡ることができるのか。毎回、行くたびに風

雨が強く、戻ってきたのももう4回目だ。20分くらい待つと、1

艘の小さな漁船から人影が現れた。ギシギシと船室のドア

が開いた。船長は船室で寝ていたようだった。しばらくする

と、船に乗ろうとする人々が一人二人と現れはじめた。「ま

さか、あの中に警察はいないだろう」人々をゆっくりと眺め

ながらイさんも風呂敷包みを手にした。「今回は必ず海

を渡ろう。生き残るために」
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△3月23日、大阪生野区で済州4・3抗戦当時、武装隊の

総司令官だった李徳九(イ・ドック)の姪イ・ボクスさん(中

央)が涙を流しながら60年前のことを話した。

(写真/角南圭祐)

この国にはもう未練はなかった。8年前、警察署に連行

された7歳*の従弟と小学校に通っていた従兄が両方とも

銃殺された。7つの子供を殺すにも警察は容赦なかった。

観徳亭(済州島にある亭閣)にさらされた‘山男’**ドック叔

父の生首も頭の中をかけめぐり続けた。父方の叔母と母

方の叔母は、2歳の子供を背負ったままの姿で穴に埋め

られた。人々は狂っていた。

一家22人がすべて穴に埋められたり、銃殺された。その

後、イさんは一度たりとも同じ場所で寝ることができなか

った。今日はこの家、明日はあの家とさ迷った。


一家22人を失った後、命をかけた密航

立ち去っても心配は尽きなかった。拠り所のない孤独な

身。

「日本に行ったら誰とどう暮らしていかなければならない

のか」50万ウォンを漁船の船長に渡し、船室に場所を確保

した。今回が5回目だが、それまで土地をことごとく売り払っ

て作った250万ウォンをそっくりそのまま密航に使ったような

ものだった。「むしろ北に行きたい。思想も何もわからない

が、それでも北ではアカ、いやアカの姪と言って銃殺したり

はしないだろう」15時間くらいが経って、日本の海域に入っ

た。しかし、陽が明るいうちは港に入ることができないため、

付近をぐるぐると回っていた。イさんを含む密航者20人余り

を乗せた漁船は、日が傾く午後6時頃に港に向かった。真

夜中にその漁船は九州の唐津港に到着した。しかし港に

は密航を捕まえる日本の警察が立っていた。「どこから来

た?」「登録証はあるのか?」警察が尋ねた。イさんは何も

言えず、肩をがっくりと落としたまま警察に連れて行かれた。

1956年10月、韓国を去った日の晩について日本語で話しな

がらイ・ボクス(72)さんは涙を流した。今年の3月23日午後

3時、大阪生野区にある聖公会教会の1階の講堂に準備さ

れた証言会の席でのことだ。手帳を手に熱心に書き取る学

生、涙を拭いながら写真を撮る新聞記者、「私もそうだった」

という表情で何度もうなずく老人など、集まった60人余りの

人々は息を殺した。

イさんは1948~49年の済州4・3抗戦を主導した武装隊の総

司令官、イ・ドックの姪だ。家族が全員銃殺され、済州島を

去り、日本に密航し、大村収容所に収監され、どうにか済州

4・3抗戦に関する記事を書いた日本人記者の助けで収容所

から出ることができた。生きることがつらいとかなづちで手を

叩き付け・・・。話を始めて1分も経っていなかったが、何か

がこみ上げてくるような表情で涙を流したイさんは、2時間く

らいに渡る証言の間涙を流し続けた。

手にしていたハンカチがぐっしょりと濡れた。

イさんがこのように多くの人々の前で口を開いたのは、日本

生活52年で初めてのことだ。オ・グァンヒョン在日本遺族会

事務局長が10年間説得し続けた結果だ。これまでは誰が捕

まえに来るかと怯え、「済州島出身」ということも、叔父がイ・

ドックだということも出来る限り言わないようにしていた。4人

の子供たちも全員日本の学校に通わせた。子供たちが政治

や思想に多少でも関連する話をすることを嫌った。それは

「考えただけでも身の毛がよだつ」ことだった。


寝床でも4・3の話をしない夫婦

これまでの60年間、沈黙を守ってきたのはイさんだけでは

ない。大阪に住んでいる済州出身の在日たちは大概そうだ。

大阪市生野区には1948年以降、人々が殺し合い、殺された

‘虐殺の島’済州から追われるようにしてやってきた在日韓

国人3万人余りが住んでいる(大阪市役所、2007.12)。

1933年、済州~大阪定期航路が開航し、済州から日本へ

渡った者たちの多くが大阪に定着した。その後、4・3抗戦を

前後して済州の人々は‘血の臭い’を避け、正規航路の代

わりに密航船へ身をゆだねて大阪へ来た。
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△大阪生野区のコリアン・タウン。済州出身の在日が多く

まるここでは、あちこちでハングルの看板や済州島の

置物を見ることができる。(写真/角南圭祐)

1948年、イ・トグク総司令官の勧めで武装隊生活をしていた

コ・ラニ(78)さんは髪の毛の中に秘密文書を隠し、運搬する

任務をまかされていた。当時、18歳だった。警察の取締りが

厳しくなり、コさんの父親は娘の身に危険が及ぶことを恐れ

てコさんを日本へ行く密航船に乗せた。済州のある海岸か

ら10人余りの人々と共にコさんが乗った船は、兵庫県の西

宮に向かった。密航船は出発地も到着地もそれぞれ違っ

た。昼は名もない岩陰に隠れ、夜にのみ移動した。3日かけ

て西宮に到着した。大阪と神戸の中間にある街だ。コさんは

同じ村の人たちが多く住んでいる大阪市生野区へ向かった。

彼女を待っていたのは悲報だった。「私が密航船に乗った

後、父がすぐに銃殺されたそうです」コさんはその後、口を

つぐんだ。苗字が高(コ)氏***なので、人々は彼女が済州

から来たんだろうと言ったが、30年以上、故郷について何

も語らずに暮らした。

コさんの夫も済州が故郷だ。4・3抗戦の頃、密航船に乗っ

て日本へ来た。コさん夫妻は一度も寝床でさえも4・3に関

する話をしなかった。10年くらい前にある研究者がコさんを

訪ねて4・3に関するインタビューを要請した。夫がいきなり

現れ、その研究者を追い出した。そしてコさんに叫んだ。

「お前も死んで、俺も死ぬ」

23日、証言会の主人公であるイ・ボクスさんも夫に隠れて

証言会に参加した。「私の夫は私と思想が違うので、こちら

側をまったく理解してくれません」証言会以降、インタビュー

の時間をつくるのも夫のせいで難しくなった。証言会の翌

日、イさんが経営するカフェに行った。イさんは30年前から

生野区で‘エデン’というコーヒー専門店を経営している。

エデンでは済州から来た在日たちが主に立ち寄り、安いコ

ーヒーとトーストを注文する。夫がいない朝の6時半にエデ

ンを訪れたが、イさんは取材陣を見るや手で口を覆った。

「しっ、静かにしてください」イさんが目で訴えた。

隅のテーブルにイさんの夫が座って新聞を読んでいた。

証言会に出たときも「娘の家に行ってくる」と言って少しば

かりの時間を作ったのだ。結局、カフェの隅で新聞を読ん

でいた夫をうかがい見ながら取材陣もコーヒーとトースト

を食べるしかなかった。夫はドアを見つめ続けた。そして

見慣れぬ顔の取材陣を横目で観察した。何かを恐れるよ

うな視線でもあった。


「分断・国家保安法-まだ何も言えない」

大阪市生野区で食堂を経営する済州出身の在日1世、キ

ム・ジョンセン(78・仮名)さんは「4・3については何も言い

たくない。

まだ分断状態だ。今も国家保安法 がある。ここの人たち

は、まだ4・3について誰も話そうとはしない」と言って取材

陣を追い払った。1947年、17歳で警察に捕まり、済州警

察署で留置場生活を1カ月送った彼は、かつての経歴が

暴露されるのではないかと気をもんだ。

「マスコミのインタビューは何度かしたが、そんな話は絶

対にしなかった。これからも絶対にしないだろう」

キムさんは取材陣の後姿に向かってこう叫んだ。

日本で4・3関連の記念行事を主導し、4・3が在日共同体

に及ぼした影響について研究してきた文京洙(ムン・ギョ

ンス)立命館大学教授(国際関係学)は「4・3を直接経験

した彼らは、‘4・3コンプレックス’とも呼べるほどの巨大

な挫折感や心理的な屈折を抱いている」と語った。

4・3抗戦を避けて日本へ来た彼らは、誰もががむしゃら

に金を稼いだ。「希望がなかったんです。お金を稼ぐ以外

に慰めがなかったんです」生野区で開いた食堂がうまくい

き、3店舗にまで増やしたホン・ヨピョ(78)さんは日本で生

まれた。

祖国が解放されるとすぐ済州に渡った。済州に行く前まで

の日本での生活は貧しかった。父は大阪城がある森之宮

の軍需工場で石を運んだ。当時、中学生だったホンさんも

一緒に石を運んだ。学校は夢のまた夢だった。父は稼いだ

日銭を賭博や酒代にすべて使った。母は工事現場の近く

で米ぬかから作ったドブロクを売った。

3畳の部屋で母、父、弟妹にホンさんの5人家族がお互いの

体温で温め合いながら冬を過ごした。そうして解放を向かえ

たホンさんの家族は、父を除く全員が済州に戻った。しかし

済州での暮らしは大阪よりもひどかった。他家の田畑を耕

して暮らした。半作農と言った。収穫の半分を地主が、半分

は小作農が受け取った。数年後、島が騒々しくなったとき、

ホンさんは友人たちに連れられてデモに参加した。若い男

が‘山男’たちに少しでも近づこうとすると、軍人や警察が

銃口を向けてくるような時代だった。

4・3のとき、「お前だけでも生きてくれ」と母がなけなしの金

を集めてホンさんを密航船に乗せた。そうやって戻った日

本でホンさんは、父がなぜあのように酒や博打に溺れた

のかが分かるような気がした。しかしホンさんは酒に溺れ

ないように努め、酒を飲む時間帯には手当たりしだいに働

いた。現在、大阪市生野区の中間商人会顧問を務めてい

る彼は「在日同胞たちが金を稼げる方法は多くない。

主に食堂をやったり不動産をし、個人ローンをやったりもし

た。時には‘悪徳’だと侮辱されながらも、歯を食いしばっ

て金をためる人が多い」と語った。
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△大阪布施地域にある在日のおばあさんのための

介護施設、‘サランバン’。釜山が故郷のあるおばあ

さんは、ここで4・3に関する話を聞き、済州出身の

おばあさんと付き合いながら‘4・3’はアカというイメ

ージがなくなった。(写真/角南圭祐)

50周年は大阪領事館が行事を妨害

イ・ドックの甥のカン・シルさんも「信じられるのはお金だ

けだから、稼げるだけ稼いで使わなかった」と話した。

カン・シルさんは地域では有名な資産家だ。人々は彼が

不動産で成功したと話した。「どうやって資産を増やした

のか」という質問に彼は答えなかった。代わりに彼は「済

州を離れて釜山に行ったとき‘済州のクソ豚’と馬鹿にさ

れた。再び日本に渡ってからは‘チョーセンジン’と差別

された。私には失うものも、惜しむものも、恐れるものも

ない人間」だと語った。

2000年に制定された‘済州4・3事件真相究明および犠牲

者の名誉回復に関する特別法’は、7年が過ぎた今でも

在日社会には馴染んでいない法律だ。広報もされていな

い。在外公館でも4・3犠牲者の遺族申請を受けているが、

日本での申請者は78人にとどまっている。韓国内では

1万3000人を超えている。

「依然として自分が済州出身であることを明かしたがらな

い人は多くいます」オ・グァンヒョン大阪4・3遺族会事務局

長が話した。

韓国内では多くの研究と共に4・3に対する再評価作業が

行われ、国民的な認識が変わっているが、大阪では4・3

に対する歴史認識が未だにほとんど変わっていなかった。

朝鮮総連や民団も4・3に関して明確な意見を出していな

い。このような雰囲気の中で済州出身の人々は「済州人

ではないふり」をして生きてきた。

オ・グァンヒョン事務局長は、韓国政府の煮え切らない態度

も問題だと言った。在外公館である大阪領事館は、4・3の

50周年行事を準備していた1997年当時、「即刻行事をやめ

ろ」と妨害してきた。その後、金大中政府が発足し、領事館

側も行事に参加したが、それ以外に取り立てて4・3遺族の

ために領事館が動くことはなかった。済州4・3委員会も4・3

の60周年行事に在日200人余りを招待するとしたが、結局

13人だけを呼んだだけだった。故郷の地に行くことで4・3の

傷を癒そうとしていた多くの在日たちが失望している。オ事

務局長は「政府が招待しない理由は、遺族ではないためだ

と聞いている。韓国政府は直系家族のみを遺族として認定

している。しかし叔父をなくした人、伯母を亡くした人、すべ

てが遺族だ。そして遺族であろうとなかろうと、4・3を経験し

て生き残るために日本へ来た多くのディアスポラの傷を癒

す義務が韓国政府にはある」と話した。


大統領の公式謝罪を超えて真相究明を

イ・ボクスさんが夫の目を盗んででも、51年間固く閉じてい

た口を開くことにしたのは、2003年10月の盧武鉉大統領に

よる‘ 公式謝罪’を見た後のことだった。「テレビを見ていた

ら、大統領が‘申し訳ない’と言ってるんですよ。これまで済

州へは二度と足を踏み入れまいと思っていたのに…。心に

焼き付いていたもの、ぎゅっと押さえつけられていたものが

少し、ほんの少しほぐれたような気がします。そして2世、

3世たちがこんなこと(真実の究明)に駆け出しているのに、

私が直接することはできないんだから、せめてこんなこと

ぐらいはと思って」

川瀬俊治・帝塚山大学講師は、毎年東京で済州4・3を主

題に公演するマダン劇(屋外演劇)を観に行く。彼は行くた

びに多くの在日に会う。「いつだったか、マダン劇の真っ最

中にあるおばあさんが出てきて、お辞儀をしながら涙を流

しているのを見ました。そしてお金を置いて行ったんです。

まるで祭事を行っているようでした。おそらく、あのおばあ

さんのように言葉に出せず、多くの恨(ハン)を隠したまま

生きていく在日1世たちは数えられないくらい多いのでしょ

う」

韓国から日本へ渡った在日は、その正確な数字もまだ

明らかになっていない。4・3事件が在日コミュニティーに与

えた影響も研究されてはいない。その第一の理由は、人々

が語らなかったためだ。今回の証言会は彼らが口火を切っ

たということに大きな意味がある行事だった。これからさら

に多くの在日たちが口を開き、恨を癒すようにすれば、大

統領の一言の謝罪を超えた、完全な真相究明と犠牲者の

名誉回復の意志を政府が示さなければならないだろう。

『ハンギョレ21』2008年04月03日 第704号



*韓国では一般的に数え年が使われているので、「7歳の従弟」の

満年齢は5歳か6歳と思われます。

**反抗勢力は山間部でパルチザン闘争をしていたので‘山男’と

いった表現が使われたようです。

***済州島は「高(コ)」、「梁(ヤン)」、「夫(ブ)」という苗字を持つ

人が多いそうです。在日2世の小説家、梁石日(ヤン・ゾギル)の

父親も済州島出身だったとか。


↓翻訳してる在韓人ブログ (反日で韓国マンセーな翻訳家)
http://hamnidak.exblog.jp/7943298

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記事を保管する為に取り込みました。

コレ読んで可哀相なんて思って在日の反日行動を正当化しない

ようにね。(哂い)

小沢が実は朝鮮人じゃないか?って疑問を持った発言は

この済州島を買い取ろうって過去発言したからです。

後で、なんの島?ってごまかして言えない素振りをしてるんです

けど。ワザとらしいな、と思ったんです。