アドルフ・ヒトラーの政権獲得後、単独犯と組織的な計画を合わせて、少なくとも42回企てられた。

ナチス政権下のドイツのような警察国家の体制下では、民衆レベルの組織的反政府運動は極めて困難であった。秘密警察ゲシュタポが国民を厳しく監視し、反政府運動を容赦無く暴力的に弾圧した。その状況下で武器も持たない一般人が、強力な兵器で武装した親衛隊や国防軍に抵抗することなど不可能であった。

第二次世界大戦勃発後は暗殺防止の為、ヒトラーのパレードは減り、一般人の前に姿を現す回数も減り、さらに戦局が悪化し総統大本営に引きこもることが多くなると、一般の個人による暗殺はほぼ不可能となり、実行可能なのは現役の軍人、しかもヒトラーに直接近づける立場にある少数の者に限られていった。また、フォックスレイ作戦など連合国軍による暗殺計画も企てられたが、全て実行に移されなかったか失敗している。

 〜計画者並びに実行者不明による暗殺未遂〜
1932年1月、ベルリンにあるカイザーホーフホテルのレストランで、ヒトラー達が昼食を摂ったものの、1時間後体調に異変が生じた。その中でも、ヒトラーの副官ヴィルヘルム・ブリュックナーが一時重症になり命を危ぶまれたが、ヒトラーは少食で菜食主義であった為、軽症で済んだ。計画者も実行者も特定出来ず、事件は闇に葬られた。

 〜イギリス大使館による暗殺〜
イギリス大使館付きの軍人、ノエル・メイスン=マクファーレンによる提案。1939年4月20日には、ヒトラーの誕生日パレードがあり、マクファーレンの自宅からヒトラーが誕生日パレードを観覧する現場までは、わずか100 mほどの距離だった。この程度の距離なら狙撃銃で射殺出来るとして、マクファーレンは本国イギリスに射殺許可を願い出たが、却下された。却下された理由はマクファーレン死去後の17年後に公開されたが、スポーツマンらしくないという理由だった。

 〜ヴァルキューレ作戦〜
大戦勃発後、ドイツは占領地から数百万人の捕虜や奴隷的労働者をドイツ国内へ連れて来たが、カナリス国防軍情報部長がヒトラーに『彼らが叛乱を起こした際の対策を取る必要が有る』と進言。ヒトラーはそれに同意し、国内予備軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将に対策案作成を命令した。フロムは部下の同軍参謀長フリードリヒ・オルブリヒト大将にそれを一任し、オルブリヒトは1942年10月13日、反乱鎮圧計画とその隠語名『ヴァルキューレ』を立案した。

国内で反乱が発生した際、国防軍・武装親衛隊を含め、全ての武装集団をベルリン・ベンドラー街の国内予備軍指揮下に置き、戒厳令を布告し政府の全官庁、党機関、交通・通信手段、放送局、軍法会議の設置まで全てを掌握する、という計画であった。発動権限は国内予備軍参謀長にあり、同軍参謀長オルブリヒト大将ら陰謀派は、ヒトラー暗殺後『ヴァルキューレ』を発動、それをクーデターに利用して国内を一気に掌握する計画を立てた。

 〜新装備展示会での暗殺計画〜
1943年12月16日、新しい軍服や装備品の展示会があり、軍服のモデルを務めるアクセル・フォン・デム・ブッシェ大尉が手榴弾を服に隠し持ち、ヒトラーと自分諸共爆殺する予定だったが、当日ブッシェが着用する予定だった軍服が連合軍の空襲によって焼失し、展示会は無期延期となった。ブッシェはその後、最前線への勤務となり、片足を失うなどの重傷を負ったものの、暗殺計画に加わっていたことは露見せず、粛清を生き延びた。

 〜ブッシュ元帥副官による暗殺未遂〜
1944年3月11日、エーベルハルト・フォン・ブライテンブーフ大尉がヒトラーの射殺を引き受ける。彼は1943年夏からクーデター計画について知らされており、計画に賛同していた。彼はエルンスト・ブッシュ元帥の副官で、一方のブッシュは熱烈なヒトラー支持者だった。その為、副官であるブライテンブーフが作戦会議中に拳銃を携帯していても、怪しまれる可能性が低く、射撃に長けていたブライテンブーフであれば、暗殺に成功すると見られていた。作戦会議に参加する際には、自分の銃はクロークに預ける必要があったが、小型拳銃をズボンのポケットに隠しており、暗殺を決行しようとした。しかし、作戦会議の出席者はブッシュ一人だけとされ、ブライテンブーフは入室が許されず、暗殺の機会を逃した。会議終了後に、トレスコウからブライテンブーフの暗殺計画が漏れていたことを告げる。ただし、ブライテンブーフに対する容疑が固まっていなかった為、逮捕されることなく見逃されていた。

 〜シュペーアによる暗殺計画〜
1945年3月頃、軍需相のアルベルト・シュペーアは、ヒトラーのネロ指令に反逆し、ヒトラー暗殺を思い立つ。シュペーアが考えていた暗殺方法は、総統地下壕の換気装置が、手の届く高さにあることに着目し、換気装置に毒ガスを注入するというものだった。しかし、ある日換気装置が手の届かない高い場所に移され、警備が厳重になっており、暗殺を断念した。シュペーアが暗殺をしようとしたことについては、シュペーアの回想録程度しか情報が無い為、信憑性には疑義が残る。

 〜7月20日事件〜
1944年6月に連合国軍がノルマンディー上陸作戦を成功させ、加えて東部戦線に於ける赤軍の大攻勢により挟み撃ちとなったドイツの敗勢は明らかとなり、黒いオーケストラはヒトラーの排除計画を急ぐようになった。この頃になると、新たに国内予備軍一般軍務局局長フリードリヒ・オルブリヒト大将、陸軍通信部隊司令官エーリヒ・フェルギーベル大将、ベルリン防衛軍司令官パウル・フォン・ハーゼ中将、参謀本部編成部長ヘルムート・シュティーフ少将、国内予備軍参謀長クラウス・フォン・シュタウフェンベルク参謀大佐など多くの将校がグループに加わっていた。

7月20日に東プロイセンの総統大本営ヴォルフスシャンツェ会議室において、シュタウフェンベルクが爆弾を忍ばせた鞄を机の下に置き、爆発させた。室内の数名が死亡したものの、ヒトラーは軽傷を負ったのみで助かった。

ベルリンの国内予備軍司令部において、オルブリヒトらは『ヴァルキューレ』作戦を発動させ、ヒトラーの死亡と国防軍首脳部の人事刷新、戒厳令を発表し、各地の軍部隊にはSS、ゲシュタポの逮捕を指令した。

ベルリン中心部は首都警備大隊により占拠され、パリやウィーンに於いてSS将校が逮捕されたが、ヴォルフスシャンツェと軍部隊との連絡が回復されたこと、首都警備大隊長のオットー・エルンスト・レーマー少佐がヒトラーの生存を確認して鎮圧側に回ったことなどによりクーデターは失敗した。

黒いオーケストラの構成員の中で、シュタウフェンベルクらはクーデター決行の当日夜に処刑され、トレスコウなど何人かの将校は自殺した。その他のメンバーはそのほとんどが逮捕され、裁判にかけられ処刑された。事件に関係した反ナチス将校の処刑はドイツの敗北の直前まで続いた。

いやはや、独裁というものは恐ろしい。