高台院は、戦国時代(室町時代後期)から江戸時代初期の女性で、豊臣秀吉の正室である。
杉原(木下)家定の実妹であるが浅野家に養女として入る。
秀吉の養子となって後に小早川家を継いだ小早川秀秋(羽柴秀俊)は、兄・家定の子で彼女の甥にあたる。

『北政所』という通称で知られる。
こう呼ばれた人物は、歴史上数多く存在したが、彼女以降はこの通称は彼女と不可分のものとして知られるようになった。

戦国時代まで、主婦権を持つ正妻が武家の家政を執り行い、高台院も羽柴家の家政を取り仕切っていた。

諱には諸説ある。

一般的には「ねね」とされるが、夫・秀吉や高台院の署名などに「祢」/「寧」/「おね」という表記がある為、「おね」と呼ばれることが多い。
また甥にあたる木下利房の備中国足守藩の文書『木下家譜』やその他の文書では、「寧」/「寧子」/「子為」などと記されていることから「ねい」説もある。

しかし近年、秀吉自身の手紙に「ねね」と記したものが確認され、再び「ねね」説が浮上している。

天正16年(1588年)、従一位を授かった際の位記には豊臣吉子の名があるが、これは夫・秀吉の名を受けたもの。法名は高台院湖月心公。