信仰=意味づけです。
意味づけは、「何で」と問いながら、答えを見つけ、悩ましい自分を受けいれることです。
キリスト者(クリスチャン)の場合、「何で」と問うときに、イエス・キリストの言葉や生き方に倣います。
そうして、批判モード(相手・組織・社会に向けての問い)と反省モード(自分自身・ルーツ・過去・運命に向けての問い)で問うのですが・・・
キリスト者が、〈反省モード〉で問う場合、神との関わりの中で考えます。
どういうことかと言うと、
キリスト者にとって、神は、この世の中を創った存在です。
「自分も神によってこの世に生まれた」と考えます。そして「こうして毎日生きていられるのは、神が、自分を愛し生かしてくれているからだ」と考えます。
自分の日々の何気ない生活、いいことも悪いことも、すべて神の計らいによって、起こっているという考え方もあります。
(私は、自分で決めて自分で行動していると思いがちですが・・・。)
ですので、何か辛いことがあった時「自分を愛している神が、なぜ自分をこのような辛い目にあわせるのだろう」と問うのです。
そうして「神は、成長させるために辛いこと(試練)を与えている」と考えるのです。
そのように考えるキリスト者はとても多いと思います。
ただその試練があまりにも大きくて乗り越えられないことで、かえって苦しむこともあります。ですので苦しんでいる人を前に「これはあなたが成長するための試練だ」と言うのは、よくよく考えなければならないと常々思います。
キリスト者は、「何で」と問う時に、
この世を創った神、
神の愛を身をもって教えたイエスの言葉や生き方が、
答えを導き出す指針になるのだろうと思います。
ずいぶん色の抜けてしまったあじさいですが、落ち着いた雰囲気に。
このように年をとりたいな・・・と。
