ラファエル・ホルツディッペ選手がお話されたことについて文章に起こすことができましたので掲載します(長いので数回に分けて掲載していきます)
ここに掲載している内容は、アルティメットa.c.のコーチである木次谷が、ホルツディッペ選手本人から直接聞いたお話を翻訳したものです。(どこの書籍にも載っていないない内容です)
私の翻訳能力にも限界がありますので、読みにくい点はご容赦ください。
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ラファエル・ホルツディッペ選手はドイツの棒高跳選手です(元世界ジュニア記録保持者・自己記録5m91)。
・ラファエル・ホルツディッペ選手
2008年 世界ジュニア選手権 金メダル(5m40)、
2008年 北京オリンピック 第8位(5m60)
2012年 ロンドンオリンピック 銅メダル(5m77)
2013年 モスクワ世界陸上 金メダル(5m89)
2015年 北京世界陸上 銀メダル(5m90)
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1. 棒高跳との出会い
私(ラファエル・ホルツディッペ選手)が初めて棒高跳に接したのは、多分7歳か8歳の時だと思う。それまでは、私は棒高跳というものがどういうものかについてまったく知らなかった。
私はツバイブリュッケン(ドイツ南部)という町に住んでいた。
ツバイブリュッケンはとても小さな町ではあるものの、棒高跳に関してはドイツの中でとても実績を残ししている町であった。
ただ、そのころ私は陸上競技というものをまだやったことがなく、陸上競技以外のスポーツを楽しんでいるところであった。
私は走ることもとても好きであったので、あるとき両親が私を陸上競技場に連れて行ってくれたことがあった。
陸上競技場に入ると、すぐにバックストレートで「棒高跳」をしているのが見えた。
両親は近くにいって棒高跳を見てきても良いといってくれたので、私は近くまで行くことにした。
LAZ Zweibrücken(ラファエル・ホルツディッペ選手がトレーニングしているクラブ)
実はその時「棒高跳」をしていたのは、後に私のコーチとなってくれるアンドレイ・チボンチクであった。その時彼はまだ現役の選手で、跳躍練習をしているところであった
私が「棒高跳」を見たのはその時が初めであった。初めて見た棒高跳に私はとても感動し、今でもその時の光景を覚えている。
見学してからある程度時間がたったので、両親は「そろそろ帰ろうか」と声をかけてきたが、結局アンドレイが跳躍練習をすべて終えるまで、ずっとそこで見学し続けることになった。それぐらい感動した。
これが私と棒高跳、そして私とアンドレイ(コーチ)との初めての出会いであった。。
2. 棒高跳を始めるまで
実は、私のスポーツキャリアのスタートは陸上競技ではなかった。柔道と体操競技が私にとってのスポーツの始まりであった。
陸上競技と接点があったのは5歳のころだったと思う。
私は結構足も速く、ジャンプ力などもあったので陸上競技のクラブから誘いを受けることもあった。ただ当時は柔道と体操競技にとても熱中していたので陸上競技にはあまり興味はなかった。
両親から、陸上競技も試しにやってみるのも良いのではないかというアドバイスもあったので、2000年の夏ごろから陸上競技のクラブにも通い始めた。
陸上競技のクラブでは私はいろんな種目にチャレンジしてみた。
60m走、走幅跳、走高跳などを中心練習した。長距離や砲丸投、やり投などもすこし試してみた。ただ、これらはあまり自分に向いているとは思わなかったので、結局、跳躍競技を中心に取り組むことにした。
あるとき、クラブのコーチから「君は脚も速いし、ジャンプ力もある。器械運動も非常にうまい。君は棒高跳に向いているかもしれないね。」といわれたことがあった。そのアドバイスもあって、陸上競技のトレーニングをする時には、ほとんど時間を棒高跳のトレーニングに割くことにした。
LAZ Zweibrückenの室内練習場
3. 棒高跳を始めたばかりのころ
誰でもそうであるが初心者の棒高跳というのは、とても棒高跳の形にはなっていないものである。私もそうであった。しかし、私にとって、助走の仕方や跳び方などの棒高跳の練習をすることはとても楽しいものであった。
私は、2000年の冬ごろには、棒高跳を中心に練習するグループに参加することになっていた。その頃は、週2回棒高跳の跳躍練習をし、ポールの持ち方やポールの曲げ方、跳躍の方法などを教わった。同時に、他の種目にも興味があったので、60mや走幅跳などの練習もし、試合にも出場していた。
棒高跳のトレーニングを始めて2,3か月後、私は初めて棒高跳の試合に出場した。多分その時の記録は2mだったと思う。私にとってこの経験はとても楽しいものであった。
楽しかったのはもちろん初めて試合に出場したからである。ただ、それだけでなく他のうまい選手たちの跳躍も見ることができたというのがとても嬉しかった。
私は人生で初めての試合を終えて、もっともっと棒高跳の練習をしたいと思うようになった。
しかし、当時の私のコーチは棒高跳の跳躍練習は週二回だけということを変えようとしなかった。コーチの考えは、棒高跳の選手は棒高跳以外の種目をやることも大切であるということであった。また、跳躍練習の日数を増やさないことでさらに棒高跳への意欲が高めようと考えていた。
4 ライバルの存在
その頃、私にはお互いを刺激しあうライバルがいた。
2002年には私の自己記録は2m80になったが。私たちが所属していたトレーニンググループではだれが最初に3mを跳ぶかということが話題になっていた。
私にはグループの中にライバルがいた。彼は技術的にとても上手な選手で、結局彼が我々のグループの中で初めて3mを突破する選手となった。
彼が3mを跳んだことで、私の闘争心に火がつき、練習に対して一層やる気が高まった。
2003年には私も3mを跳ぶことができるようになった。そしてその後自己記録を3m50まで伸ばすことができた。
今度は彼の闘争心に火が付いた。
今度は彼が4mを跳べるようになり、それによった私も気合が入り、意欲的に練習するようになった。
今思うとこのライバルとの競い合いというのはとても楽しい時間であった。
その頃、私は棒高跳の以外にも、柔道と体操競技も続けていた。
学校は7時ごろから始まり13時ごろに終わったが、毎週月曜と金曜日の放課後は、スポーツをする時間としていた。
詳しくいうと14時から16時までは体操競技の練習、16時から18時までは陸上競技、18時から20時までは柔道の練習であった。
当然、家に帰るとぐったりするという生活であったが、私はそういう生活を楽しんでいた。
友達の中には、学校が終わって皆と遊びにいったり、家でDVDを見るのが楽しみだという子どももいたが、私はスポーツをしたり競技をしたりすることが大好きな子どもであった。
(次回に続く)


