生誕を祝う。

それは、その者がこの世に生を受けたことを喜び、その感謝や常日頃の労りを行うものである。

この日本では、周囲の人間、家族や恋人、子供に対しそれを祝うのであるが、私は数年前より、誕生日とは祝われるものなどではなく、血縁の者や今の自分を取り巻く人々、関係があったり世話になっている人に対して、いつも世話になっておりすまない。自分は一人などでは生きてゆけず、皆の助けがあってこそだと感謝の想いを考え直す日なのだと思っている。

正直年齢など関係なく、一般的な社会人としての年齢に相応しい人間にならなければいけないと毎年考えさせられるのだ。

しかし恥ずかしながら、さきほど申したような周囲への感謝とは偉そうな、いかにもいろいろと考えていますというような発言に行動は伴っておらず、自身の誕生日には恋人から祝福を受け、美味い飯や欲しいと思っていたもののプレゼントなんかを甘んじて受け取ってしまっているのだ。

 

この日本ではと記述したが、誕生日とは一記念日ではなく、当然家族からしてみればよくここまで大きくなったものだ。と喜ばしく感じるものであろうし、恋人であれば、共にその生誕を祝うことが出来る喜びというものがあって、周囲からの祝いを断ってまで、生誕日はむしろ君への感謝なのだ。とパーティーを催し、皆いつもありがとう。かんぱーい!

なんてことはしないのである。

特別極端なことを言っているとも思わないが、実行するには勇気がいる。

なぜならば、自らの生誕祭を自ら主宰し、開催のあいさつでは、「えーみなさん本日はお忙しい中、私の誕生日におこし頂き有難うございます。今日という日を迎えることが出来たのも、皆さまのご指導ご鞭撻が・・・いや、寛大なお付き合いあってこそと思っております。大したものは用意しておりませぬが、どうぞごゆるりとしていってください。」

なんて申し上げなければいけないのだ。

これは日本人の私にとってなかなかの恥ずかしさである。欧米人のように自分をアピールしないと生きてゆけない文化ではないのだから。

 

自らの生誕祭なんぞ開催せず、周囲からの祝いの言葉やプレゼントなんぞを受け取り、「わざわざいいのに、いやほんと有難う。」なんて全然言動が伴っていないままこの30年を迎えてきたものだ。

今後もきっと同じような歳が繰り返されつつ、生誕日には、馴染みのスーパーの店員にもいつもありがとうといわんばかり、気持ちばかりのウインクなんぞ差し上げていくのだろう。

 

とまぁ私の生誕観なんぞはどのようでもいいのだが、

この6月の21日をもってpun子の誕生日であったわけで、気持ちばかりのお祝い前日~当日と開催したのである。