モークリーとエッカートは1947年に「汎用電子式コンピュータ」の特許を申請し、1964年に特許を取得した。特許権は1951年にレミントンランド社(後のスペリーランド)に売却されていた。同社はロイヤリティ支払いを同業他社に請求するための子会社を作った。
1954年6月、IBMの弁理士 A.J. Etienne は、エッカート=モークリー特許の回転磁気ドラムメモリについての部分は、アタナソフの支援があれば勝てるかもしれないと考えた。つまりABCでクリフォード・ベリーが、アタナソフの磁気ドラム案からキャパシタドラムに変更した事実が先例になるかもしれないと考えたのである。アタナソフは支援することを承知したが、結局IBMはスペリーランドと包括的な特許共有契約を結ぶことで合意したため、裁判は行われなかった[3]。
1967年5月26日、ハネウェル社はスペリーランド社を訴え、ENIAC特許の無効性を主張した。当時としては最も長くかかり高くついた裁判は1971年6月1日に始まり、77人の証人、80の宣誓証言書、30,000 の証拠品をかけ、1972年3月13日に結審した。ここでアタナソフのマシンが先例として重要となった。
この件は1973年10月19日、ENIAC が ABC から多くのアイデアを取り入れているとして、特許無効が決定された。判事は次のように明確に述べている。「エッカートとモークリーは自らが自動電気式デジタルコンピュータを発明したのではなく、アタナソフの開発物からそれを取り入れたのである」
スペリーはこの判断に異を唱えなかった。この判断の翌日、いわゆる「土曜日の夜の虐殺」が起きたため、特許問題は隅に押しやられ、ほとんど報道されなかったのである。法的には ABC が最初のコンピュータとされたものの、その後も ENIAC が世界初のコンピュータといわれ続けたため、アタナソフの勝利は不完全なものとなった。
戦後
1954年6月、IBMの弁理士 A.J. Etienne は、エッカート=モークリー特許の回転磁気ドラムメモリについての部分は、アタナソフの支援があれば勝てるかもしれないと考えた。つまりABCでクリフォード・ベリーが、アタナソフの磁気ドラム案からキャパシタドラムに変更した事実が先例になるかもしれないと考えたのである。アタナソフは支援することを承知したが、結局IBMはスペリーランドと包括的な特許共有契約を結ぶことで合意したため、裁判は行われなかった[3]。
1967年5月26日、ハネウェル社はスペリーランド社を訴え、ENIAC特許の無効性を主張した。当時としては最も長くかかり高くついた裁判は1971年6月1日に始まり、77人の証人、80の宣誓証言書、30,000 の証拠品をかけ、1972年3月13日に結審した。ここでアタナソフのマシンが先例として重要となった。
この件は1973年10月19日、ENIAC が ABC から多くのアイデアを取り入れているとして、特許無効が決定された。判事は次のように明確に述べている。「エッカートとモークリーは自らが自動電気式デジタルコンピュータを発明したのではなく、アタナソフの開発物からそれを取り入れたのである」
スペリーはこの判断に異を唱えなかった。この判断の翌日、いわゆる「土曜日の夜の虐殺」が起きたため、特許問題は隅に押しやられ、ほとんど報道されなかったのである。法的には ABC が最初のコンピュータとされたものの、その後も ENIAC が世界初のコンピュータといわれ続けたため、アタナソフの勝利は不完全なものとなった。
戦後
第二次世界大戦後もアタナソフは政府機関に残り、爆発物を遠隔から検出するための特殊な地震計と気圧計を開発した。1952年、Ordnance Engineering 社を設立。1956年、同社をエアロジェット社に売却して、大西洋地区担当重役となった。ABC は単なる思い出となり、アイデアが借用されたことを1954年まで知らなかった。
1960年、妻と共にメリーランド州ニューマーケットの丘の上の農場を、終生の棲家として移住した。1961年、新たな会社である Cybernetics Incorporated をフレデリック (メリーランド州)に設立。同社をその後20年間経営した。その間、急速に成長するコンピュータ企業同士の法廷闘争に徐々に引きずり込まれていった。特許問題が解決すると、アイオワ州立大学はアタナソフを讃えるようになり、その後もいくつかの賞を受賞した。1995年、自宅で病気療養中に死去。
1960年、妻と共にメリーランド州ニューマーケットの丘の上の農場を、終生の棲家として移住した。1961年、新たな会社である Cybernetics Incorporated をフレデリック (メリーランド州)に設立。同社をその後20年間経営した。その間、急速に成長するコンピュータ企業同士の法廷闘争に徐々に引きずり込まれていった。特許問題が解決すると、アイオワ州立大学はアタナソフを讃えるようになり、その後もいくつかの賞を受賞した。1995年、自宅で病気療養中に死去。