ヴィクトリアが即位したばかりの頃、イギリス東インド会社支配下のインド(英語版)の北西が大英帝国の弱点となっていた。イギリスはシク教国と連携してインダス川まで勢力を伸ばしたものの、ロシア帝国もブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国を事実上の勢力下におさめ、ついでアフガニスタン王国を窺っていた。そのためアフガニスタンがイギリスとロシアの中央アジア覇権争い(「グレート・ゲーム」)の中心舞台になろうとしていた。
ヴィクトリアの戴冠式から間もない1838年10月、イギリス軍はアフガニスタンへ侵攻し、首都カーブルを陥落させた,コンスタンス ミニ。アフガン王(アミール)ドースト・ムハンマド・ハーンは北方ブハラ・ハン国へ亡命したため、イギリスはインドに亡命していたシュジャー・シャーを傀儡の王に即位させた。しかし1841年11月カーブルで反英闘争が激化し、掌握不可能となり、それに乗じてトルキスタンに亡命していた前王の息子アクバル・ハーン(パシュトゥー語版)がウズベク族を率いてカーブルへ戻ってきたため、イギリス軍は降伏を余儀なくされた。アクバルはイギリス軍の安全な撤退を保障したが、約束が守られることなく、現地部族民が略奪をしかけてきてイギリス軍は大量の死者を出しながら撤退する羽目となった。結局16000人のカーブル駐留イギリス軍で生き残ったのは軍医のウィリアム・ブライドン(英語版)のみであった(第一次アフガン戦争)。大英帝国の威信は傷つき、メルバーン子爵内閣は厳しい追及を受け、退陣に追いこまれた。
イギリスの後ろ盾を失ったシュジャー・シャー王は殺害され、ドーストがアフガンに帰還してアミールの座を取り戻した。イギリスは敗北したものの、すでにアフガン南西部を半植民地状態にしていることは変わらなかった。結局ドーストは外交権を事実上イギリスに委ねざるをえなかった。さらに1864年のドーストの崩御後にはシール・アリー・ハーン、モハメド・アフザル・ハーン(英語版)、モハメド・アザム・ハーン(英語版)の三兄弟が王位継承争いを起こしてアフガンに内戦が発生した。インド総督はアフガン弱体化を狙い、内戦を煽ろうと不干渉を建前に「兄弟のうち王位を固めた者を承認する」と宣言した。イギリスの狙い通り内戦は激化し、王位の奪い合いの末、最終的には1869年にシール・アリー・ハーンが王位を固めた。
一方ロシア帝国は1868年にブハラ・ハン国、1873年にヒヴァ・ハン国、1875年にコーカンド・ハン国を攻め滅ぼし、中央アジアの3ハーン国をすべて保護領とした。警戒したイギリスはアフガン支配強化の必要性を感じ、シール王に対してイギリス外交団をカーブルに常駐させるよう求めた。しかしシール王はこれを認めず、逆に1878年8月にロシア皇帝から送られてきたロシア将校団の使節の受け入れを認めた。イギリス・インド総督ヴィクター・ブルワー=リットン伯爵はこの扱いの差に激怒した。
ヴィクトリアの怒りも激しく、彼女はアフガニスタン懲罰の必要性を感じたが、第一次アフガン戦争の苦い思い出もあり、外交圧力をかけて解決させるようディズレーリ首相に指示している。しかし現地インド軍は早々にアフガニスタンへ侵攻を開始していた。ヴィクトリアもやむなくインド軍を全面支援するよう首相と外相に要求した。アフガンとしてはロシアの軍事援助を期待するしかなかったが、ロシアは露土戦争の戦後処理国際会議ベルリン会議で孤立していることに焦り、安易な出兵をして孤立を深めたくない時期だったため、アフガンは見殺しにされた。
こうしてはじまった第二次アフガン戦争でイギリス軍はアフガン軍のゲリラ戦に苦しめられながらもロバーツ将軍の指揮の下にアフガン軍を撃破し、1879年6月にモハメド・ヤクブ・ハーン(英語版)王にガンダマク条約(英語版)を締結させて戦争は終結した。イギリスはロシアでの長い亡命生活でロシアからの信頼も厚いアブドゥッラフマーン・ハーンをアミールに即位させ、外交を完全にイギリスが掌握しつつ内政は彼に任せてアフガンから撤収していった。