占う者としての学びとは異なることなのですが、様々な分野に関心がありまして、
それらの情報をを《つまみ食いする》と言うか《垣間見る》といった意味合いで、
ブログに記録しておくことにしました。

その一つ目が『パーリ経典』=と称される仏教の聖典に収められた言葉です。
なお、 「パーリ」とは聖典という意味であり、
『パーリ経典』は「聖典(パーリ)の言葉」で 書き記した聖典という通称名です。
西インド系の、ウッジャイン地域周辺で使われていた ピシャーチャ語の一種であると
推定されるパーリ語で書かれているようです。

記事の引用元は、《小部経典8:テーラガーター》=テーラガーター聖典(長老偈経)
( http://aranavihaara.web.fc2.com/arana-khuddaka-8.html )からの抜粋です。


《16.1.4 ラッタパーラ長老の詩偈》より

776.(776):〔わたしは〕見る――世において、財を有する人間たちを。
迷いの者たちは、富を得ても施さない。貪りの者たちは、財の蓄積を為し、
まさしく、より一層、諸々の欲望〔の対象〕を望み求める。


777.(777): 王は、〔他を〕打ち負かして、地を征圧して、
海辺に至るまでの大地を占拠しつつも、
海の此岸“こなた”では不満の様子で、
海の彼岸“かなた”でさえも望むであろう。


778.(778): 王も、他の多くの人間たちも、渇愛を離れず、死へと近づき行く。
まさしく、不足の者たちと成って、肉身“からだ”を捨棄する。
世において、諸々の欲望〔の対象〕による満足は、まさに、存在しない。


779.(779): 親族たちは、諸々の髪を振り乱して、彼のことを泣き叫ぶ。
しかして、「ああ、まさに、不死にあらず」と言う。
〔葬送の〕衣“ころも”に包まれた彼を搬出して、
〔火葬用に〕積み上げられた〔薪山〕を設置して、そののち、〔死体を〕焼く。


780.(780): 彼は、諸々の串に刺されながら、一衣で焼かれる。
――諸々の財物を捨棄して〔そののち〕。
しかして、親族たちは、朋友たちは、しかして、あるいは、道友たちも、
死に行く者の救いには成らない。


781.(781): 相続者たちは、彼の財を運び去る。
いっぽう、〔迷いの〕有情は、〔自己の為した〕行為(業)が〔釣り合う〕ところへと行く。
死に行く者に、何であれ、財が従い行くことはない。
子たちも、妻たちも、財と国も、〔何であれ、従い行くことはない〕。


782.(782) 財によって、長寿を得ることはない。
さらには、また、富によって、老を打破することもない。
慧者(けいしや)たちは言う。
「まさに、この生命(寿命)は、僅かである。
常恒ならず、変化の法(性質)である」〔と〕。


783.(783) 富者たちは、貧者たちも、接触すべきもの(死)に接触する。
愚者も、慧者も、まさしく、そのように、〔死に〕接触された者として、〔世に有る〕。
まさに、愚者は、〔自らの〕愚かさゆえに、まさしく、
〔老に〕打倒された者として、〔地に〕臥す。
しかしながら、慧者は、接触すべきもの(死)に接触された者として、〔心が〕動かない。


784.(784) それゆえに、まさに、知慧こそは、財よりも、より勝“まさ”っている。
――それによって、〔人は〕この〔世において〕、完成に到達する〔のだから〕。
まさに、自己が完成されていない迷いの者たちは、諸々の種々なる生存において、
諸々の悪しき行為(悪業)を為す。


785.(785) 〔迷いの者は〕他〔世〕から他〔世〕へと、輪廻を体験して、
しかして、〔母〕胎へ、しかして、他世へと、近づき行く。
それ(輪廻的あり方)を盲信している、知慧少なき者は、
しかして、〔母〕胎へ、しかして、他世へと、近づき行く。


立場に違いはあるとしても、耳を傾けるだけの意味はあると思います。