🎄どうも、占い館ルネッサンスの右京です。
いよいよ明日はクリスマス・イヴですね。
特別な予定はありませんが、何だかワクワクします。
ということで、
今回はクリスマスにまつわるエピソードです。

         

🎄子供の頃に麹町のある教会に連れて行かれた
トナカイクリスマスクリスマスベルの体験が背景にあった。

会堂の中で、自分の真上にある電灯が
1つだけ消えていたのを見て、
「ただ一羽だけ囀(さえず)ることを忘れた小鳥」である
「唄を忘れたかなりや」のような印象を受けた
……という。

         

🐤上記は、1918年に発表された童謡『歌を忘れたカナリヤ』(原題『かなりや、原詩『かなりあ』にまつわるエピソードです。このいきさつは、『西条八十 唄の自叙伝で、このように書かれているようです。

これより、リブログさせていただいた記事からの引用です



・・・・ある朝、意外な客が訪れた。鈴木三重吉と名刺に書いてあったので私はびっくりした。

当時、小説家三重吉の名を知らない者はほとんどなかった。その有名人が無名の一青年を訪ねてきたのである。

「新しい童謡をあなたに書いて頂きたいのです」

雑誌『赤い鳥』のために、わたしはまず「薔薇」という童謡を書き、次にあのひろく唱われた「かなりや」を書いた。

そのモティーフは、幼い日誰かに伴れられて行った、たしか麹町のある教会だった。年に一度の聖祭の夜、会堂内に華やかに灯された電灯のうちただ一個、ちょうどわたしの頭の真うえに在るのだけが、消えていた。それがただ一羽だけ囀ることを忘れた小鳥--「唄を忘れたかなりや」のような印象を起こさせて哀れに想えた。
・・・(自分の境遇に照らして、)わたしはまさに歌を忘れたかなりやである。
(以上、引用終わり)


以下、原詩


『かなりあ』  西條八十

 歌を忘れたカナリア(金絲雀)は
 後ろの山に棄てましょか
 いえいえ それはかわいそう

 歌を忘れたカナリア(金絲雀)は
 背戸の小薮に埋けましょか
 いえいえ それはなりませぬ

 歌を忘れたカナリア(金絲雀)は
 柳の鞭でぶちましょか
 いえいえ それはかわいそう

 歌を忘れたカナリア(金絲雀)は
 象牙の舟に銀のかい
 月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思い出す
  

🐤  🐤  🐤  🐤  🐤  🐤  🐤  🐤  🐤  🐤   

🚮「棄てましょか」「埋(い)けましょか」
「ぶちましょか」……といった、童謡とは不似合いに思えるような勇ましい(❓というより残酷な)歌詞になっています。それは、第一次世界大戦が始まる前の世の中を反映しているのかもしれません。

🐤西條八十が『かなりあ』を発表してから100年余り経った2020年、この世界は新型コロナウィルス感染症(COVID-19)に翻弄されています。

🚑その最前線で対応している方々は大きなストレスにさらされ、一方では生活に困窮する人も出ています。これに対して「自助努力」と「自己責任」を唱える人たちもいて、童謡 『歌を忘れたカナリヤ』 が発表された1918年の世情に似ているように思えるのです。

         

🐤社会・組織の構成員同士が互いに助け合うことを相互扶助、もしくは互助と呼ぶそうです。「自助努力」と「自己責任」を唱える人たちは、相互扶助とは逆の自助努力の立場にいらっしゃるようですが、不思議なことに、普段は同調圧力を前面に出して、皆の意見に従うことを望んでおられる。自助努力とか同調圧力とかを一緒に主張されるのは、「なんだかなぁ」って思えるのです。

🐤でもね、
象牙の舟に銀のかい月夜の海に浮かべれば
忘れた歌を思い出すと思うのです。相互扶助によって不安を取り除けば、自助努力同調圧力に関係なく、忘れた歌を思い出す日がやって来ると思うのです。

         

🐤税金を納める側が、税金を「吸い上げる」側の言いなりになるのは、年貢を納めている側が、お上の言いなりになって、「生かさず殺さず」に扱われていた江戸時代のお百姓と変わらないわけです。

🐤さえずる「カナリヤ」のように、憂いなく楽しく暮らせる日が、一日も早く戻って来ますようにラブラブ