🌞どうも、占い館ルネッサンスの右京です 音譜
搭載している頭脳が低年式ですので、一つのことを考え出すと他のことが疎かになってしまうので、ハードディスクとメモリを増設できないものかと考えているところです。

🌞昨年の春から、タロットや易などの《卜術(ぼくじゅつ)》に関するあれやこれやについても、じっくりと・・・・・・というより自身の脳の性能に合わせて考えています。ですが、そこに新たな情報が飛び込んできて、そっちにも触手が伸びてしまうと、先に考えていたことと並行して進めるか、一方を一時的に中断することになります。

🌞食事に例えると、歯の間に小骨が挟まったような感じです。。。小骨かと思っていたら、思いもよらなかったものを発見できる、ということもたまにありますが、今回は円滑な思考を回復するために、思考の隙間に挟まっている異物を取り除かねばという思いで、書くことにしました。


🌞 今回、思考の隙間に挟まっていたのは、『邪馬台国』が存在したかもしれない場所を想起させるも新聞の記事です。『邪馬台国』はどこにあったのか❓という話題、というかブームは不定期にやってくるようで、そのたびごとに「九州説」と「畿内説」が俎上に載せられ、どちらに軍配を上げるかという流れで、論争が戦わされるわけです。

🌞わたくし右京が中学・高校生だったころにも、『邪馬台国』はどこにあったのかが話題になりました。それから半世紀近く経ったいまでも、『邪馬台国』がどこにあったのかは明らかになっていないのですね。そして、俎上に上げられるほどの新鮮さも感じなくなりました。

🌞ところが、一週間ほど前に、『邪馬台国』とは関係のない記事に出会ったのです。それが、「明和町 初期斎宮の建物発見 26日現地説明会 三重』(伊勢新聞)というもので、その記事を読みすすめているうちに、「邪馬台国はここだったんじゃね❓」という考えが浮かんできて、歯の間に挟まった小骨のように、頭の隅っこのほうで微弱な信号を発信し出したわけです。

 

 

 

🌞『邪馬台国』が「九州」と「畿内」のどちらだった」のか❓……という話は「魏志倭人伝」という書物に書かれたことを拠り所にしているのです。そして、「魏志倭人伝」は中国の歴史書である『三国志』の中に収録された、「魏書」第30巻[烏丸鮮卑東夷伝倭人条]という部分の略称なのですね。

🌞つまり、『三国志』の中に「倭人伝」という独立した列伝が存在したのではなく、「東夷伝」の倭人伝以外の部分に倭の記述があるのです。当時の日本列島の状況を、中国大陸に報告する渡航者が存在していたのでしょう。

🌞ですが、記録された内容は曖昧であり、当時の日本列島の姿であるとは言い切れないのです。もし、そこ書かれているとおりだとすると、『邪馬台国』の位置は太平洋上になるんだとか❓……ということは、根拠に欠けるとも言えますね。

🌞さて、このブログのタイトルからも明らかなように、わたくし右京は占い師であり、中国の占術を学んできました。ただ占術の専門書に頼るだけでなく、「易学」や「陰陽五行」に関する文献に当たることで占術理論の裏付けを取ることに注力しました。

🌞地元の図書館に収蔵されている、明治書院さんの「新釈漢文大系」全120巻の中から、「易学」や「陰陽五行」に関する記述を抜き出して、それぞれの文章を照合し、何が正しいのかを確認したのです。

🌞その経験から申し上げると、漢文で書かれた文献には、間違った考え方に基づいた内容が少なくないということです。「易学」や「陰陽五行」に関する記述なんて、正しく伝えられていないことが結構あります。

🌞そこから類推すると、「魏志倭人伝」だって信頼性に欠けていると思うのです。『邪馬台国』がどこなのかを考えることにはロマンを感じますが、それと史実を混同してはいけないのです。そこで、冒頭にリンクした記事に刺激を受けたのです。

🌞『邪馬台国』といえば「卑弥呼(ひみこ)」。「卑弥呼(ひみこ)」という名は中国の古典籍に記されているものです。日本でも「ひみこ」と呼ばれていたのでしょうが、漢字が普及する以前で、呼び名としての「ひみこ」が存在し、名前の文字は無かったのでしょう。

🌞日本では「日出(イ)ずる処(トコロ)の巫女(ミコ)」もしくは「日出(イ)ずる処(トコロ)の御子(ミコ)」、あるいは「日出(イ)ずる処(トコロ)の神子(ミコ)」だったのでしょう。そこから「日」の「みこ」である「ひみこ」という名称だったと思います。

🌞そして、伊勢神宮は「ヒミコ」を太陽神として崇め、天照大御神を内宮の御祭神としているように思えるのです。斎宮は年に3度、「三時祭」(6月・12月の月次祭と9月の神嘗祭。三節祭とも)に限って神宮へ赴き神事に奉仕したそうです。

🌞斎宮跡がある三重県明和町竹川は伊勢湾までは約5kmほどですから、山海の幸にも恵まれていて農耕にも向いていたと思われる。立地的にも豊かな環境であり、農耕を中心推した文化が栄えていた可能性は高いと思われます。

🌞伊勢には元旦の日の出を迎える祭礼があると、吉野裕子さんの本に載っていたと記憶しています。また、この周辺には遺跡もあり、古代から発達していたようですし、これからも新たな遺跡が見つかる可能性もあるでしょう。

🌞そして、ここから奈良盆地まで直線で80km圏内なので、交流も不可能ではないでしょう。しかし、『邪馬台国』が『大和朝廷』へと進化したのか、それとも『大和朝廷』に滅ぼされたのかは分かりません。

🌞ただ、海の向こうから朝日が昇る所に、斎宮を置くことに重要な意味があったと思うのです。日が昇ることを崇め奉る役目が、「ひみこ」から斎宮に受け継がれたのだと考えています。

🌞伊勢から南に進んで紀伊半島の熊野市があり、熊野古道を経由して奈良盆地へと通じるところにも、古代史を繙(ひもと)く鍵がありそうな気がするのです。


🌞以上が『邪馬台国』は伊勢湾近くにあったんじゃないか❓……という、ワタクシ右京の妄想です。あくまでも妄想ですから、正しいかどうかは、近いうちに明らかになることを期待しています。

🌞というわけで、思考の隙間に挟まっていた小骨もとれたようなので、次回の記事は占いの話題に戻す予定です。