お笑いコンビ『麒麟』の田村 裕さんには、「貧乏エピソード」という持ちネタがあって、その一つに「味の向こう側」という話があります。

 

白米を噛み続けると味がしなくなりすが、さらに噛み続けることによって、その先に「一瞬ふわっとした甘さ」が来るという話です。

 

これ、けっこう知られているエピソードですから、覚えておられる方も多いんじゃないでしょうか。

このエピソードを知ってから思うところがありまして、それを書き留めておこうかということで、「〇〇の向こう側」について書きます。

 

「味の向こう側」に通じる言葉として、

「読書千遍、其の義自ら見る」(どくしょせんべん、そのぎ おのずからあらわる)という故事が思い浮かびました。

 

『三国志』魏志に記されている言葉で,董遇(とうぐう)という魏の学者が、弟子入りを申し込んできた者に対して放った言葉だとか。

 

「読書百遍意自ずから通ず」という言葉のほうが有名ですが、その元になったら故事のようです。

 

その意味するところは、「どんなに難解な書物も、何度も何度も読んでいるうちに、自ずと意味するところが自然とわかるようになるものだ」ということだそうです。

 

これを「味の向こう側」に例えると、白米を噛み続けると味がしなくなって噛み疲れてしまうのと同様に、何度も繰り返し読んでも理解できずに読み疲れてしまう。

 

それでも飽きずに噛み続けると、その先に「一瞬ふわっとした甘さ」が来るように、飽きずに噛み続けていると、「一瞬ふわっとしたヒント」が閃いてくるみたいな感じですかね。

実際のところ、世間には記憶力に優れている人は少なからずいます。「噛み砕く」ほどの努力をしなくても記憶出来て、スラスラと説明もできてしまう。いわゆる秀才とかエリートと称される人たちですかね。

 

ところが、こんな話も目にしたことがあります。

某国立大学の先生がSNSで書かれていたことです。

「(有名進学校である)K高校とH高校から来たのは大変だ」と。

 

また、別の先生は、

「有名進学校から入ってきた学生よりも、〇〇から編入してくる学生のほうが優秀であったりする」と。

 

驚きです。

それって、「味の向こう側」のように噛み続ける学習じゃなくて、流動食みたいにして流し込む学習なのかな?

 

あるいは、記憶力を優先した学習が中心になって、思考力が追い付いていないのかも?

 

おそらく、偏差値だけでは推し量れないものがあって、個々人の能力とか可能性を伸ばすヒントも、「味の向こう側」というエピソードの中にあるのかもしれません。

 

できれば、より多くの方が「〇〇の向こう側」に遭遇できると良いですね。

 

本当に久々の投稿です。ほぼ3カ月間、放置状態にしていたわけですが、それでも読者登録を取り消さずに見守っていただいた方がたには感謝しかありません。

 

この間に、色々と考えておりました。ブログとか、SNSの発信について、これまでとは違った形にできないものか?……また、新たなアクションも計画しているもので、それとの連携を考えたり。

 

まあ、方向性も見えてきたので、それを進めつつ、ブログの発信しまてまいりますので、よろしくお願いいたします。

 

あと、こんな論文もありました。

「読書百遍義自ら見る」は正しいか100 times of Reading Leads Understanding is True?

興味のある方はどうぞ。