朝鮮人が「ぶちギレた」日(上) | 右京時代

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朝青右京支部のブログです。

突然ですが4月24日って何の日だかご存知でしょうか?


そう!

知る人ぞ知る「4.24阪神教育闘争」があった日です!

またそれがあった1948年という年は本当に朝鮮民族にとっては重要な年でして、「4・3済州島事件」や「大韓民国(8.15)」及び「朝鮮民主主義人民共和国(9.9)」が建国され祖国が分断させられた年でもあります。

さて、その教育闘争を扱った演劇が行われちゃうのです。、
わが右京支部の後輩たちも出演します。

「留学同京都総合文化公演<4.24の歌>」
2月16日(土)14:30~(14:00開場)
京都市国際交流会館


そこでみなさんに興味をもってもらえるよう、また演劇をご覧になる方により一層堪能してもらえるよう上・下に分けて書いてみました。

長いですが読んでいただけたらありがたいです。



1、 闘争前夜

1945月8月15日、在日朝鮮人は日本の植民地支配からの解放を迎えます。

当時、日本にいた約220万人の在日同胞は、一斉に祖国である朝鮮半島へ帰国しはじめ、一年間に約150万人が故郷に帰っていきました。

ただ、祖国の情勢の悪化に対する懸念や一定の生活基盤を築いていたこともあり、やむを得ず一旦日本に残った同胞もいました。

さて、その同胞らが考えたのは将来帰国するにあたり、緊急の課題の一つが子どもたちの民族教育でした。

長期に渡る植民地支配と皇民化政策により、子供たちは歴史や文化どころか朝鮮語さえも話せない状態にあったのです。

そのため在日同胞は、戦後の混乱期、あらゆるものが不足していた時代に、「金のある者は金で、力のある者は力で、知識のある者は知識で」を合い言葉に、全国各地に600以上もの「国語講習所」を建設していきました。

朝鮮語や歴史を知っている人が報酬もほとんどあてにせず先生となり(中には良心的な日本人も含まれていました)、「青空教室」やボロボロのアパートの一室で授業し、日本の学校の一隅を借りたりしながらなんとか運営していました。

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(イメージ図。ちなみにこの写真は1954年当時の東京都立東京第三、校舎を改修するための仮校舎)



 しかし1948年1月、文部省はGHQ(連合国軍総司令部)の指令を口実に


・朝鮮人の自主教育は認めない
・朝鮮児童は日本学校に編入すること
・朝鮮人の学校設立は認可しない



などを内容とする通達を、都道府県及び在日朝鮮人聯盟(以下朝連)・朝鮮人学校に出します。

さて、ここで知っておかなくてはならないのは、「どうしてGHQが解放の対象であったはずの朝鮮人を弾圧し始めたのか?」という理由です。

日本の敗戦後、米国は基本指令で「軍事上の安全の許す限り、朝鮮人を解放人民として処遇すべきであり、日本人という用語は含まれない」としつつも、「必要な場合には敵国人として処遇される」と規定していました(二重基準)。

ところが、47年2月には「対日講和条約の締結までの在日朝鮮人は国籍上日本人である」とする公的見解を表明します。当時の国際情勢は、まさに中国をはじめ共産主義国家が加速度的に建国されていた時期で、アメリカはその流れをなんとか食い止めたかったんですね。

で、結局朝鮮半島南部だけは自分のいうことを聞く「国」を作り、なんとか日本と共同してソ連や中国からの「赤化」を抑えることに躍起になっていました。

だから、南での単独選挙に反対し朝鮮半島北部を支持していた朝連の存在が邪魔だったんです。また朝鮮半島で戦争になることも予測してましたから、軍事基地となる日本で暴れられても困るという考えでした。

そして、「朝連=朝鮮学校」とみなし、その組織の核心部分を一気に叩き潰してしまおうと考えたわけです。また日本政府も、敗戦国民であるという劣等感と解放人民として「のさばる」朝鮮人に対する不快感が合わさりそのGHQの政策に同調しました。

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2、山口・岡山闘争

さて、上述の通達を根拠に同年3 月に、東京、神奈川、福井、大阪、兵庫、島根、山口、の8地方に民族学校閉鎖令が出されます。

各地の同胞たちは即座に抗議し、反対集会などを開きます。その中でも、真っ先に闘争し始めたのが山口県の同胞たちでした。

当局の学校閉鎖指令(3 月18 日)に対して激怒した同胞たちは30 日から31 日にかけて1 万余名が県庁を取り囲み「24時間座り込み闘争」を繰り広げました。そして交渉の結果「閉鎖命令延期」を勝ち取ることになります。

続いて、その朗報を聞いた岡山県の同胞たちも、4月7日に出された閉鎖命令への抗議のために数千人が岡山県庁前に集まります。

そして19日には、同胞代表と知事とが直接面談し「閉鎖命令延期」を勝ち取ることになりました。この両県での快挙が人づてに兵庫県にも東上し、とうとうあの4.24教育闘争を迎えることになります。


3、兵庫闘争

神戸でも、それまで何度も県や市と交渉をしようと運動をしていました。

しかし、4月15日には一旦知事と対面できたものの「代表者が多い、面会時間の5分も過ぎた」という理由で退席され、怒って座り込むと不退去罪として逮捕されました。

そして、23日に市内にある学校の4つの内3つを強制的に閉鎖しました。

ところが、残りの西神戸初等学院だけは抵抗が強すぎて閉鎖できませんでした。

そして24日、

同胞たちの怒りは頂点に達し、兵庫県庁前で約1万人の集会を開きます。
そして、西神戸学校の処遇について協議していた県知事の元へ約300名が一気に押しかけました(後に「乱入事件」といわれる)。

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途中でMP(連合軍憲兵)が数名来て拳銃を突きつけましたが、女性も含めた若者たちが「撃つなら撃て」と胸をはだけて前に立ちはだかり圧倒し追い返しました。

孤立した知事は結局、代表らと交渉せざるを得なくなり、その結果次のような画期的な約束を取り付けることに成功します。


・閉鎖命令は撤回する
・朝鮮学校の設立申請があれば認可する
・現在の朝鮮学校を認可する
・4月15日の件は不問にする


これはそれまでの山口と岡山の閉鎖「延期」よりもさらに好条件の内容であり、まさに完全勝利といえるものでした。

その日、集会参加者たちは涙を流し互いに抱き合い、権利を勝ち取った感激を味わいながら帰路へとつきます・・・・。

ところがです。同日深夜、神戸軍政司令部(GHQ)は突如「非常事態宣言」を発し、合意文書の無効を宣言しました。

そして阪神地区で米憲兵隊司令官の指揮下に入った日本の武装警官隊により「朝鮮人狩り」が開始されました。

第8軍司令官アイケル・バーカー中将は神戸での記者会見で、「今、ここにクインエリザベス号があれば、非文明的行動を行った朝鮮人を全員本国に送還してやりたい」とまで語っています。

結局4日間で、支援した日本人を含む1973 名が不当に検挙されることになります。またその日本人らも含め重労働を課せられました。http://www4.ocn.ne.jp/~uil/1948424.htm


(実はこの非常事態宣言は後の調査で「文書で正式に出されたものでない」ことが明らかになっています。

「新聞が勝手に書きたてたので発せられたことにした」と当時の刑事部長が語っています。

つまり、逮捕状によらない不当逮捕が大量に強行されたわけです。)

そして、まもなく学校だけでなく朝連の各支部までもが閉鎖されることになりました。
(当時の共産党の野坂参三議員が国会で「神戸の朝鮮人は正しい」と演説しましたが、他の国会議員から一斉に罵声を浴びせられています。)

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(イメージ図。1953.3.7の東京都立朝鮮中学校・東京都立朝鮮高等学校)

また、逮捕された同胞の中には当時の県本部委員長であった朴柱範という人がいました。

軍事法廷で有罪判決を受けた後、刑務所に入れられたのですが、彼は刑務所に訪ねてきた若者たちにこう語ったといいます。

「私は老人だから、いつ死んでも恨(ハン)は無い。

ただ偉大な人民共和国の栄えある日々が見られないのが恨だ。

若い君たちの奮闘に期待する」


(ちなみに彼はクリスチャンでしたが、国家の正統性の意味から共和国を支持していました)。

また、当時留置場内では「南朝鮮の単独選挙を支持するか?」という尋問が実施され、「支持する」と応じた者を釈放していました。

しかし、彼はそれを断固拒否しています。

 翌1949年11月25日午後8時、病状が悪化して仮出獄となったのですが、そのたった4時間後に亡くなりました(享年63歳)。

彼の葬儀は「人民葬」として行われ、1万人以上もの人が参列したそうです。

実は、この部分は当時県知事と交渉した当事者である徐元洙氏から「西神戸学校から県庁前を通り春日野道斎場まで葬式デモを行ったんだ」と、西ノ宮で行われた講演会で直接聞きました。

徐元洙氏は、若い頃にこの朴柱範氏に見出されなければ自分は民族に目覚めることはなかったと、目に涙を浮かべておっしゃっていました。

そして、僕はその時にもうひとつ、ツライけれど胸が熱くなるお話しを聞きました。


それは、4月26日の大阪闘争で亡くなった金太一という「少年」に関するお話です。


(下へつづく)