


● 何かと、お世話になっています、水野健牧師から、
毎月、「伏見城下町だより」 を送ってきていただいています。
5月分の 「親鸞と聖書」 を、このブログに転載させていただくことをお願いして、ご了解をいただきました。
感謝! 感謝主!
◯◯◯ 親鸞と聖書 ◯◯◯
親鸞生誕850年特別展が京都国立博物館で開催され、多くの方で一杯でした。
親鸞の歎異抄とキリストの救いの類似性と相違点を、何人かの日本の聖書注解者は説明しています。
キリストの救いは、ただキリストを信じるのみ。「信仰によって」。
親鸞の絶対他力は、『信心のみを要する』。どんな中でも信心のみが大切と教えています。
アプローチは似ていますが、対象が違います。
親鸞の信じる阿弥陀仏は想像の理想像で、我らの信じるキリストは実在されるお方。
歎異抄が大衆に読めるようになったのは明治になってからで、それまで、本願寺で隠されていました。
おもしろいくだりを見つけました。
歎異抄第9節
親鸞の歎異抄第9節に、弟子唯円房との対話。
「唯円が聞きます。『念仏は尊いと信じて唱えてはおりますが、飛び立つほどの喜びもいたされませず、また、急いで浄土へまいりたいという心も起こりませんが、これではいかがのものでしょう。かような有様ではお助けがいかがと存ぜられますが、どうしたものでしょう』。
親鸞答えてたまわく、『親鸞もこの不信があったのに、唯円房 おまえもそうかや』。」
正直な心の思いが表現されています。
さて私達の場合はどうでしょうか。
ローマ書5章2〜5節
「神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。
それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。
なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
イエス様への信仰により、神を大いに喜び、苦難さえも喜び、乾いた心にあふれるばかりの愛が聖霊によって注がれる、というのです。
観念だけの教えではなく神様への関係が、私達の心を変えることができるのです。
心に愛が注がれているという言葉は、完了形の動詞が使われています。それはあたかも、心の中に神の愛が一杯になみなみと注がれていて、それが続いているかのようにです。
レンスキーの注解です。
『あなたの心を、穴の空いたカンにするな。大きな湖にせよ。
イエス様を信じるなら、心の中で生ける川の水が流れる。』
見えないウィルスにおびえるのではなく、見えない神の愛に感動する日々を過ごしたいものです。


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