私のお気楽ブログに

この記事が必要なのかはわかりませんが

今の気持ちを残して置きたい。

という気持ちになりました。



父が亡くなった日の事も綴っています。




父はとてもお酒にだらしない人でした。

いつもいつもお酒が優先で

そんな父が嫌いでした。


でも根はとても繊細で

どんな人よりも人を気遣い、

でも

そんな気遣いまで

不器用な人でした。




健康的な事はほとんどせず、

お酒を手放さない為

年齢と共に食べられなくなり細くなり、

ベロベロに酔っ払っちゃ

転んでどこか出血したり、ケガしたり…

と一時も気が休まらない

本当に世話の焼ける父でした。




コロナが始まった頃

2021年になった途端

主人が救急搬送され

大きな病気を患いました。


私は本当に辛くて悲しくて…

主人の事と子供の事、

自分の事生活の事。


必死にそれをこなす毎日。

やっとやっとそんな毎日にも

安定や良い方向へ向かう兆候が

見えてきた頃


今度は父が救急搬送されました。

脳梗塞でした。


父の脳梗塞は搬送が早かったにも

関わらず

入院中に二度目の梗塞が起きてしまい

体に麻痺が残ってしまいました。



リハビリ病院を経て

自宅に戻ってからは

デイサービスやショートステイに

行きたくない!

の一点張りで少ない回数でしか

利用する事ができず

本当に母と姉は手を焼いていました。


私は主人が大病した後遺症で

てんかん発作が起きてしまう為

主人を長時間1人にするには不安で

なかなか父の介護の手伝いを

全面的にはできていませんでした。




が、

私から見た父の我儘には腹が立ち

父の言いなりになる

母や姉の不器用さにも

やきもきしていました。




でもきっと私だって

父と一緒に生活していたら

頑固な父をデイサービスや

ショートステイに沢山行かせる事は

とても難しかったんじゃないかと

思います…。




言うだけは簡単ですよね悲しい




そんな日々を送る母と姉。

自営業の仕事と父の介護だけをして

外食はおろかどこにも出かけず

の3年目。


このままでは母と姉が体調を

壊すんじゃないかと心配しながらも

全力で手伝えない自分にも

どうしたらいいのか悩みました。





3月の初旬

私のポリープ手術の日程が決まり

電話で話すより

近所にある実家に寄って

母と姉に報告しようと

出かけて行きました。



母と姉に話しをしている時

父が部屋から電話をかけてきて

体が動かないと。


そこからバタバタと救急車を呼び

これからこの狭い家に

沢山の救急隊員の方が来る事を考え

邪魔にならないように

私は一旦

家に帰る事にしました。


この時言葉は交わしませんでしたが

父と一瞬目が合いました。

今思えばこれが正気な父との

最後になりました。




救急要請して一度入院したのは木曜日。

この時なかなか入院先が決まらず、


延命治療をしないというのを了承した上で入った1つ目の病院でしたが、

私達家族の

「延命治療」

の認識不足で

病院から延命治療の選択を迫られました。



「延命治療しないって納得した上でこの病院に運ばれて来たんでしょ?

もうダメ(手遅れ)なのわならない?

何の為に延命するの?

意識もないのに管だけ繋げる事になるんだよ」

 


など

搬送された患者の家族の

不安な気持ちなどお構い無しな


相当心無い言葉を浴びせられ

わかっていた事だけれど

父を前にして気持ちはブレるし

何が正解なのかもわからない。

ただ

悲しむどころか

腹が立ってしょうがなかったと

母と姉は言っていました。




延命治療をしないのか

延命治療をするのか(転院)



究極の選択を何度も何度も

繰り返し聞かれ


姉も母も

どうしていいかわからなくなり

私に連絡が来ました。


その時は

夜中の0時を越えていましたが、

母と姉と私の3人で

危篤状態になった時



「今できる限りの治療をしてもらおう」

と決まり、

転院をお願いしました。




今の救急病院は

私の家から車で15分ぐらいのところで

私も合流するつもりで

仕度を始めていました。


暫くすると転院先の病院が決まり

病院から車で30分かかる為

私はまた家で待機する事になりました。





転院した病院の救急も酷い態度で

(何故にこんなに救急って酷いの?

たまたま??)

転院したのに

ここに入れて良かったのかと

悩んでしまう程の対応だった様です。


ただ救急からナースステーションに

一番近い病棟に上がると

看護師さんの対応は一変

普通に会話のできるきちんとした

対応に

やっとホッとしながら

母と姉は大雪の降る夜明けに

自宅に戻って来ました。




改めて母と姉、そして私と

顔を突き合わせて話した時

「延命治療の認識」

そして

延命治療はしない

という決意に3人でなりました。



人って不思議ですよね…

家族を助けて欲しくて

どんな事でもいいから助かる治療を

して欲しいと思ったり


やっぱり自然の流れに逆らってまで

生かしておく意味を考えたり

その時の感情で

気持ちが揺らいでしまいます。




転院病院に入った数日は

誤嚥性肺炎が少しずつ良くなっていて、

このままゆっくりではあるが

2週間を目処に

良くなっていくでしょう。

という先生のお話でしたが




ここから父の容態は

何度か急変を繰り返し、


4回目の急変で虹の橋を渡ってしまいました。




信じられなくて

実感がなくて



もっと喋っておけば良かったと

もっと父の介護に協力すればよかったと

本当に後悔ばかりが

私を責め立てます。




でもね




働きながら

急変の時には仕事を中断して

駆けつけ

仕事を休める時には休んで

その他の予定は全てキャンセルして

いつでも父に駆けつけられるように

していました。



この3週間

私のできる限りを

父に注いだつもりです。



だから

後悔は沢山あるけど

最後の時は沢山父に会えて

よかったです。 



父に「ありがとう」

も沢山言ったけど


「沢山介護に関わって

あげられなくて

ごめんね」


これも忘れずに伝えようと思います。



みなさんも

コンチクショーと思う親でも

反りが合わない親でも

亡くなると孝行しておけば

よかったと必ず

思うと思います。


ご両親が生きてる間に

是非

沢山関わってあげて下さい。