清和源氏の宝刀として


代々嫡流に伝わった名刀、髭切(鬼切)。



源満仲以来、頼朝まで
この刀を持つことが
源氏嫡流の証であった。

現在は京都の北野天満宮に所蔵されており

以前見たことがある。



平治の乱に敗れ伊豆に流されていた源頼朝のもとに
高倉宮以仁王の令旨を持った叔父
新宮十郎行家が訪れる。

行家は平治の乱で敗死した源義朝の末弟にあたる。

叔父とはいえ、頼朝とはほぼ同世代であった。

叔父として尊大に振る舞い、以仁王の平家追討の令旨を頼朝に差し出して決起を迫る行家。
頼朝は
確たる返答はせず
家臣に、源家重代の宝刀髭切の太刀と、「源太産着」という鎧を持って来させる。

これを持つ者こそ
源氏嫡流の正統後継者であり、
たとえ叔父であろうが
嫡流当主の前では、家臣としての
礼を尽くすべきと頼朝は行家に

思い知らせようとしたのである。


それに、慎重で用心深い頼朝は
たとえ叔父といっても
ほとんど交流のなかった者をすぐに信じたりはしなかった。

「自分には平家に刃向かう意志などない」と伝えて行家を追い返している。


頼朝はやがて挙兵。平家を倒し

鎌倉に幕府を開く。


頼朝の死後、頼朝の子供たちは

頼朝の妻である北条政子の実家

北条氏に実権を奪われ

源氏将軍は3代で滅びる。


頼朝が持っていた源氏の宝剣髭切の太刀は

執権北条氏に奪われ、代々北条嫡流の

得宗家に受け継がれることになる。


しかし、その北条得宗家も、14代高時のときに、後醍醐天皇の綸旨を受けて立ち上がった足利尊氏と新田義貞によって滅ぼされる。

足利も新田も、八幡太郎源義家の血を受け継ぐ、筋目歴然とした清和源氏の名家であった。

源氏の政権を簒奪し、平家の支流を名乗っていた北条氏は

源氏の名家によって滅ぼされる。


実際に鎌倉を攻撃し

北条氏を撃滅した新田義貞が

源氏の宝刀であった髭切の太刀を

手に入れる。


しばらくは、義貞が所持していた髭切の太刀も、南北朝の動乱で

足利新田が対立し、劣勢になった新田義貞が北陸に逃げるも

越前杣山の戦いで、足利一族の斯波高経に敗れて戦死すると、髭切は高経の物になる。


高経が、源氏の宝刀髭切の太刀を手に入れたことを知った足利尊氏は

高経に髭切の太刀の引き渡しを要求する。


梅松論には、尊氏が

「ソレハ末々ノ源氏ナド持ツ物ニアラズ。

急ギ、当家ニヨコサレヨ。

家宝トシテ嫡流相伝スベシ」

と命じたが、高経は応じす

怒った尊氏が高経の戦功を無視したと記されている。


斯波家は足利一門の中でも特に高い家格を持ち、いつでも足利宗家に

取って代わる野心を抱いていた。

尊氏としては、上位の一門の野心を砕いておきたかったのであろう。


やがて髭切は、斯波一門で

奥州探題をつとめた山形の最上氏に渡り

江戸初期に最上が改易断絶になったあと

徳川氏に渡り、明治になって

徳川氏から北野天満宮に寄贈された。


今に伝わる伝説の宝刀。ぜひもう一度見たいよな。