・上の画像は大正元年発行の「赤磐郡誌」の西山城祉の項ですが

 宇喜多土佐(延原土佐)の諱(実名)は秀正となっている。忠家は誤認

 と思われる。

 延原卓之著「延原氏苗字の由来」でも同様、秀正となっている。

 延原総本家の筋目書では旨吉と書かれている。

 一方子息、内蔵丞は「延原氏苗字の由来」では家次と記述している。

 これは私の推測ですが秀家の代に偏諱(へんき)授与により父、土佐守

 には「秀」内蔵丞には「家」が一字づつ授与されたのではないかと思

 います。

 土佐守父子は直家・秀家にも信頼されていたことがうかがえます。

 

 

 

伝延原弾正忠景能墓 所在 和気町日笠下        伝延原弾正内室・子息の供養塔 

                           所在 和気町南山方延原 公民館付近

                               

・延原弾正は戦国時代から安土桃山時代の武将、和気天神山城主浦上宗景の重臣

 の一人、天正3年(1575年)天神山の戦いの際は明石某と共にかつての同僚、宇喜

 多直家に内応して落城に導いた。以後は宇喜多直家の家臣として美作三星城の戦

 い、周匝茶臼山城の戦いなどで奮戦した。  昭和56年発行の「戦国大名家臣団

 辞典」によると弾正忠景能ノチ弾正少弼景光としている。同じ家中に同時代に同

 姓同官途名は特別な場合以外いないので私はこの記述を採用する。弾正は勝間山

 城主(美作市位田)・上山城(高鉢城)主だったという。「萩藩閥閲録」によると天正9

 年(1581年)冬、因幡国の蕗谷城又は富貴谷城(鳥取県八頭郡智頭町富沢区阪原)で籠

 城中に毛利方の草刈勢の夜襲を受けて戦死した。

 

 

 

 

 

左 和気町日蓮宗本久寺宇喜多土佐守墓標

  没年 慶長14年(1609年)

  戒名 開山了心院殿道益日得大居士

 

右 岡山市北区足守法華宗東光寺鍛冶山城主信原(延原)土佐守墓標

  没年 天正10年(1582年)

  戒名 瑞雲院殿俊哲善光日東大居士

 

注) 二つの寺院で一人の武将の没年・戒名がまるで違う

  宇喜多土佐守は宇喜多直家から武功を讃えて宇喜多姓を授かったと思われる。

  本姓は延原又は信原です。(宇喜多分限帳に記載があります)  

岡山県和気町田原上にある田原城

(城山)山麓にある妙應寺墓所ですが

どれが土佐守のものか不明でした。

奥まった所になぜかキリスト教式

の墓がありました。(赤字の位置に

墓所があります。)

旧版赤磐郡誌によると天正11年(15

83年)に土佐守は剃髪して本久寺の

住職となり子息、内蔵丞が城主に

なたようです。文禄年間に書かれ

たと思われる「宇喜多氏家士分限

帳」には磐梨郡田原城主浮田土佐

とあります。父の死後土佐守を名

乗ったと思われます。

 

 

和気町本久寺にある土佐守の石塔墓

土佐守は剃髪して初代住職になった。

没年は宇喜多忠家のものと思われる。

延原土佐守旨吉は延原総本家に伝わ

る「筋目書」によると関ヶ原合戦以

前に62才で病死している。

 

菅家の末孫、(古い文献には菅家すなわち菅原道真の分家の末裔とあるが確証はない)延原内蔵亮家次(延原内蔵丞家次は

延原土佐守の子息とされてます。さらに諱の家次ですが一次資料は確認されてない)・・・ 省略・・・天正七年八月

(最近の研究では天正三年九月)浦上氏滅びて・・・省略・・・戦国時代を勇猛に生きた武将であった。

※後日談として萩藩文書によれば天正八年に美作で毛利との戦いで戦死している。

 

 

岡山市、東京都八丈島町を中心に「宇喜多秀家公」を

大河ドラマにという運動が展開さりてます。

私も署名して家臣団証をゲットしました。

墓所 東京都八丈町大賀郷稲場墓地
戒名 尊光院殿秀月久福大居士
墓地にあった岡山城礎石
 

3月24日~26日の予定で宇喜多公の墓参りに行ってきました。

豊臣政権の五大老の一人、宇喜多権中納言秀家公が84歳で没

して昨年で370年忌にあたります。

関ヶ原合戦で西軍が破れた後、戦場から離脱した秀家一行は

庄屋の家に身を隠したりして最終的には薩摩の島津家に身を

寄せますがついに見つかり家康の元に引き出されて八丈流刑

が決定して慶長11年(1606年)4月息子2人(孫九郎秀隆、小平次)

と従者ら計10人と共に八丈の土を踏みます。正室豪姫の実家

前田家から援助物資が明治に至るまで届きました。

しかし、鳥も通わぬ八丈島と言われるように当時の船で100日

現代のフェリ-でも10時間を要する孤島です。今回私達も低気

圧の接近で航空機が欠航して2日間余計に過ごしました。

島の気候は亜熱帯風でヤシの木が沢山はえてます。

島の土産は島焼酎・黄八丈・そして明日葉です。

宇喜多公も明日葉を食べていたから人生50年と言われた当時

でも84歳まで生きたのではと言われてます。島寿司も美味し

かった。家臣延原土佐守の末裔としていつかは行きたいと願っ

てましたが近所の同姓の竹馬の友と行くことができました。