菅家の末孫、(古い文献には菅家すなわち菅原道真の分家の末裔とあるが確証はない)延原内蔵亮家次(延原内蔵丞家次は
延原土佐守の子息とされてます。さらに諱の家次ですが一次資料は確認されてない)・・・ 省略・・・天正七年八月
(最近の研究では天正三年九月)浦上氏滅びて・・・省略・・・戦国時代を勇猛に生きた武将であった。
※後日談として萩藩文書によれば天正八年に美作で毛利との戦いで戦死している。
菅家の末孫、(古い文献には菅家すなわち菅原道真の分家の末裔とあるが確証はない)延原内蔵亮家次(延原内蔵丞家次は
延原土佐守の子息とされてます。さらに諱の家次ですが一次資料は確認されてない)・・・ 省略・・・天正七年八月
(最近の研究では天正三年九月)浦上氏滅びて・・・省略・・・戦国時代を勇猛に生きた武将であった。
※後日談として萩藩文書によれば天正八年に美作で毛利との戦いで戦死している。
3月24日~26日の予定で宇喜多公の墓参りに行ってきました。
豊臣政権の五大老の一人、宇喜多権中納言秀家公が84歳で没
して昨年で370年忌にあたります。
関ヶ原合戦で西軍が破れた後、戦場から離脱した秀家一行は
庄屋の家に身を隠したりして最終的には薩摩の島津家に身を
寄せますがついに見つかり家康の元に引き出されて八丈流刑
が決定して慶長11年(1606年)4月息子2人(孫九郎秀隆、小平次)
と従者ら計10人と共に八丈の土を踏みます。正室豪姫の実家
前田家から援助物資が明治に至るまで届きました。
しかし、鳥も通わぬ八丈島と言われるように当時の船で100日
現代のフェリ-でも10時間を要する孤島です。今回私達も低気
圧の接近で航空機が欠航して2日間余計に過ごしました。
島の気候は亜熱帯風でヤシの木が沢山はえてます。
島の土産は島焼酎・黄八丈・そして明日葉です。
宇喜多公も明日葉を食べていたから人生50年と言われた当時
でも84歳まで生きたのではと言われてます。島寿司も美味し
かった。家臣延原土佐守の末裔としていつかは行きたいと願っ
てましたが近所の同姓の竹馬の友と行くことができました。
岡山県和気町本久にある説明看板と旧版「赤磐郡誌」に記され本久寺の項目
これを見てわかるように本久寺は初代浮田又は宇喜多土佐守の屋敷跡に建立した
もので後に嫡男内蔵丞(後の2代目浮田土佐守)らが改築を行ったことがわかる。
以上のことから本久寺を建立改築したのは宇喜多土佐(延原土佐)一族であり
看板にあるように宇喜多忠家ではない。
左の画像は私が訂正した。