備前市閑谷出自延原氏族の先祖
 岡山県備前市三石五石地区の延原姓の者は筋目書(岡山市東区南水門町在住延原某所蔵) その他資料によると和気郡佐伯庄(現和気町)一帯に所領を構えた武士団延原氏族の出身である。なかでも和気町南山方延原地区は延原氏族の本拠地と言える。
「延原氏苗字の由来」の著者延原卓之氏は同地区を一族発祥の地とまで述べている。一部資料には信原の表記があるが同一姓と考えて差し支えないと考える。当初延原氏族は浦上氏に仕え三石城、室山城(室津城)、天神山城等に居たが天神山城落城後に宇喜多和泉守直家、権中納言秀家の臣下となった。ちなみに天神山落城は天正3年(1575年)と言われている。土佐守の嫡男内蔵丞は後年土佐守を名乗った。また、嫡男は浮田姓を与えられ、遠藤河内守(直家の密命で毛利方の武将三村家親を短筒で狙撃、その功績で官位と石高加増と家久の名を与えられた。)同様浮田内蔵丞後に浮田土佐と名乗ったらしい。  始めに言っておきますが私たちの祖先「土佐守」に関しては資料上、誤認、混乱が多くみられる。「日笠荘」の著者日笠賢氏(元陸軍大佐・陸軍大学校卒)も「よくわからない」と述べている。本稿では「筋目書」を主軸に述べていきたい。
  次に筋目書の大まかな内容は次の通りとなる。


 源氏那須与一旨高(宗高か)七代孫

      (略)

  那須与一旨高源平両家の戦いに扇の的を射落とし、その名を後代に上げる。

 故有って那須の家名を去り母方の名字を請けて(延原と)名乗りまた位に仕えて土佐

 守と名づく。

  信長公より五千石を仰せつけられ、備中賀夜郡鍛冶山南丸に居城する。



   西国にあって強弓(者)なり。この後、福光佑市右衛門佐則三人大力の弓引き也

  信長公より領地八千石を賜って鍛冶山北の丸に居城して芸州毛利家から囲まれ

  た時の為に二人の頭目を置くなり。

 延原佐衛門尉     土佐守旨吉(宗吉か)一男    高則

 代々弓取りの筋目(家系)であるから強弓が上手である。その後、京の三十三間堂で

 通矢をして天下一の賞賛を打ち立てた。

□□二年土佐守六十二才にて病死す

その後秀頼公の代、慶長五年 美濃大柿陣(関ヶ原合戦)に西国打ち負けたる故佐衛門
尉高則所領天下に上がり備前国和気郡閑谷に蟄居し元和三年(1617年)に七十才にて病死す。
寛文十一年(1671年)池田少将(池田左近衛少将光政)閑谷に祓い(神事)の為にお越しに
なり、父をお召しになった。(父曰く)  延原の先祖は弓人也云々
三貫文(現代の価値で約8万円)を頂戴した。
     (略)
常紋披扇子(家紋か)
正徳三年(1713年)十一月吉日                          以下省略

 注)・那須与一宗高は屋島合戦において平家方の女房が持つ扇の的を射抜き、戦功をあげ備中荏原荘(現井原市)を得た。その後、分家が地頭となり領地とした。
     何代か後、何らかの理由で宗吉が母方の延原家に養子に入ったと思われる。
  ・ □は欠損 (文前後の関係から土佐守は関ヶ原以前に亡くなっている。文禄4年
    の宇喜多家菩提寺光珍寺の判物に浮田土佐とあるので初代土佐守だと思われる。
    よって没年は慶長2年と推測する。)
    ・ アンダーライン部は恐らく徳川幕府、池田藩に忖度して宇喜多公
        若しくは秀吉公と書くべきところ信長公としたのであろう。
  ・ 祓いというのは恐らく閑谷学問所完成の神事と思われる。
    ・ 筋目書には嫡男内蔵丞の名がないが恐らく本丸に居たのであろう。
    ・ 嫡男内蔵丞(後土佐守)は切支丹だった為、最初から書かなかった可能性が強い。
 
 「新釈備前軍記」(柴田一著編著)に延原土佐・延原内蔵丞(のぶはらくらのじょう)の名が見える。また「備中兵乱記」(加原耕作編著)にも信 原・延原内蔵充の名があり鍛冶屋山城に居たことがわかる。また宇喜 多家分限帳にも浮田内蔵丞の名と石高が見える
同じく鍛冶屋城の欄に信原(延原)土佐の名がある。筋目書に備中賀夜郡鍛冶山南の丸に居城とあるので一致する。彦根城博物館蔵の「関ヶ原合戦屏風絵」に描かれた延原土佐は内蔵丞が叙任して土佐守(浮田土佐)を名乗ったものだろう。天正10年(1582年)~慶長5年(1600年)迄の宇喜多家分限帳には浮田内蔵丞の名が見えるので叙任は関ヶ原合戦の直前と思われる。(関ヶ原合戦は9月15日)一方土佐守は直家が病死する2年前の天正8年(1580年)頃は備中鍛冶山城に嫡男内蔵丞と共に居城していたようだ。(「備中兵乱記」p262・筋目書)
五石延原氏族の直接の祖先は鍛冶山城南ノ丸・西山城(和気町田原上)に居たという延原土佐旨吉(宗吉か)の子息、延原佐衛門尉高則(のぶはらすけえもんじょうたかのり)である。和気町佐伯本久寺に石塔墓がある宇喜多土佐は畑和良氏(倉敷市歴史資料専門員)がインタ-ネット「落葉ひろい」で述べている延原土佐と同一人物であ可能性が極めて高いという指摘は私も同感である。なぜかと言うと大正元年(1912年)発行の「赤磐郡誌」の太王山本久寺の項(p〇一七二)に元禄四年(1691年)の棟札に「當寺草創者當山之居城佐伯之領主宇喜多土佐守一萬二千石云々天正年中ニ改テ號太王山本久寺了必院道益日徳尊霊位」と記し、其右側に「當寺之開基則土佐守是也云々内室法光院妙壽尊尼次子息同姓内蔵丞殿御領之砌(みぎり)天正十一年辛未(かのとひつじ)天九月本堂建立云々」とあり、延原土佐の嫡男の名が見える。亦、和気町米沢にある総社宇佐八幡宮に延原弾正、宇喜多土佐守、池田藩家老佐伯領主荒尾志摩、土倉一成らの寄進録がある。(p〇一七一)更に同書西山城祉の項(p〇二一二・二一三)に土佐守は佐伯を領し、知行一萬二千石にて今の本久寺の地に居住せしものなるが天正十一年國政を子内蔵丞に譲りて此地に隠居し、同地宇佐八幡宮社前に於いて剃髪して仏門に帰すと本久寺録にある。以上のことを見ても宇喜多土佐守が延原土佐守と同一人物であることが分る。一方嫡男の内蔵丞改め二代目延原土佐は関ヶ原合戦の後丹波国別所豊後守を頼り切支丹を信仰して蟄居したと言う。(「新釈備前軍記」附録)   延原佐衛門尉高則の名は宇喜多家分限帳には記載はないが浮田右衛門丞の名が見える。兄と同様に浮田姓を名乗っていたのであれば筋目書には右を佐に書き換え、さらに丞を尉に書き換えた可能性もある。いずれにしても父の土佐守、兄の内蔵丞と共に鍛冶山城 (岡山市北区足守大井)にいたことはぼ確実である。
   一部資料に宇喜多土佐は宇喜多直家の弟の忠家との記述がみられるが 加原耕作氏も「岡山県歴史人物事典」(山陽新聞社)で忠家は出羽守に叙任しており、宇喜多土佐は忠家とは別人と見られると述べている。また、「和氣郡通史偏中巻Ⅱ」宇喜多土佐守と本久寺の項では浮田土佐守と本久寺を創建した宇喜多土佐守とは同一人物とみてよいであろうとも述べている。さらに宇喜多氏は宗家の系譜に連なる者は宇喜多姓、分家筋の者は浮田姓を名乗ったようであり、土佐守は直家、秀家の家臣であった可能性が強い、本久寺では忠家とされ境内には忠家の戒名と没年をほった墓塔もたてられているが果たして忠家であったかどうか疑問であると述べている。和気町の文化財の説明では天正11(1583)年に浮田土佐守が密厳寺の諸堂宇の一部を遷して本久寺を開いたとされると記されている。「新釈備前軍記」(柴田一編著)の附録によれば忠家は浮田左京亮忠家とある。忠家は天正12年(1584年)出羽守叙任、2年後の天正14年に出家して安津と号して秀吉の直臣となって(「宇喜多秀家」大西康正著)慶長14年大阪で没したといわれる。また、延原弾正忠景能と延原土佐守が同一人物との記述もみられるが景能は天正8年(1580年)宇喜多・毛利の戦いで戦死しており(萩藩閥閲録)延原土佐守とは別人である(ウイキペディアより)
   宇喜多土佐守忠家の記述は享保16年(1731年)の総社宇佐八幡宮の棟札裏書に記されている。前出の「赤磐郡誌」校閲者の歴史学者・文学博士沼田頼輔氏は「正史と符合せざる處多きが故にこれを信ずる能わず」と言っている。なぜこのような誤認が生まれたのか
 私見ですが加原氏が述べているように宗家は宇喜多姓、分家或いは授姓者は浮田姓という習慣は宇喜多家中のみの事であり、宇喜多、浮田の使い分けは外部の者には分らないので江戸時代、「うきた」と言えば三文字の「宇喜多」と記述してさらに秀家か忠家かと思い流人の秀家を外して忠家としたのかもしれない。率直に延原土佐守と書いていれば後世の人も混乱せずに済んだとしみじみ思います。  岡山県備前市三石字五石在住 延原 嘉右衛門(ペンネーム)
 

先日、町が主催するウォ-キング大会に参加した。350人が参加したウォ-キング

 

大会だった私はゴール地点を過ぎて天神山トンネルの上に階段をつたい登った。

 

立派な手摺づたいに登っていくと小さな祠が見えてきた。そこにはモルタル作りの

 

小さな鳥居があり、その向こうに男根を形どったご神体がさん然と立っていた。

 

岡山県には性器崇拝の神社が2カ所確認されているがまさかこんなところにある

 

とは驚きだった。農業は今はほとんどの作業が機械化されているが昭和40年頃

 

までは人海戦術だった。子宝に恵まれる否かは死活問題だったに違いない家の

 

存続にも関わってくる。子宝に恵まれようとこのような神様に必死で祈ったと思う。

永禄9年(1566年)宇喜多和泉守直家の密命を受けた遠藤秀清・俊道兄弟は

 

備中松山城主三村家親を美作興善寺において短筒で狙撃して暗殺した。

 

この功により秀清は浮田姓を与えられ名も家久と改め、浮田河内守家久

 

と名乗った。詳細が大正元年発行の「赤磐郡誌」に載っていたので紹介

 

する。

 

三村紀伊守家親、(毛利)元就の下知として一萬餘の人数にて作州(美作)へ

発向(出発)し宇喜多の砦を屠り、在々所々亂亡す、直家肺肝をくだけども

其勢當り難し、時に遠藤喜三郎(秀清か)を呼んで、汝は数年備中にいたれば

家親を見知るべし、今作州に忍入り、策を廻し討ものあらば恩賞は望みに

任すべしとて、熊野牛王に誓紙して渡さる、遠藤一生の大義ながら否み難

く、一命をば奉可とて、弟、後(籐)修理と打連れ、革羽織、革手附に短き

鉄砲懐中して出かけるが、家親は穂村の興福寺(興善寺か)といふ山寺に諸

将を集め軍談して居たる處へ、遠藤忍入り縁(側)に上り障子の紙につば

を付けぬらし、穴を明けてのぞき見れば、家親床の柱に頭居けるを彼鉄砲

を差し出しねらい濟して打ければ、肝のたはねを打ぬかれ、即時に倒れ死

しけり、上下周章ふためけば、遠藤も同く騒て時分を見合せ立歸りけるが

鉄砲を捨てけるを残念に思ひ道より又立戻り縁に置きし鉄砲を取って内を

覗き見れば夜中に人数を引て備中へ帰らんとの評議とぞ聞こえし、夫より

まもなく遠藤兄弟帰りければ、直家大いに感じて右の如く一萬石の所知を

與へ、宇喜多の名字を譲り、諸太夫になして、河内守と改め戸倉の城主と

し給ふ弟にも三千石を與へて名を修理と改めしむ

 

後藤(浮田)河内守家久の墓所は現在の岡山県赤磐市山陽にあるという。

 

私が「宇喜多史談会」に居た頃、後藤河内の後裔の方がいらして、狙撃

 

したことを悔やんでました。しかし、あの当時は戦乱期であり下剋上など

 

何でもありの時世でした。武士の倫理が確立したのは江戸期に入ってから

 

でした。直家はむしろ画期的な方法で戦をしたと思います。

 

 

 

主人曰く

江戸時代中期の頃、備前国和気郡森石村に池田藩より苗字帯刀を許された

高田桂蔵という名主が居た。この名主、元来の欲張りで百姓からの年貢米

を受け取る時は太枡(一回り大きな枡)を使い、藩に納める時は普通枡を使っ

て利鞘を稼いでいた。この行為は凶作の時も容赦はなく過酷を極めたという。

ある年の5月の始め、桂蔵の一人娘が百姓衆の前で赤飯のおにぎりを食べてい

た。百姓衆は明日食べる米にも事欠く有様だった。「もう我慢ならん」

百姓衆の頭目がつぶやいた。百姓たちは夜こっそり集会を開き、一揆の段取

りを話し合った。そして5月中頃の満月の夜決行と決まりついにその日が来た。

百姓たちは手に手に竹槍、鎌、鉈、鍬などを持って桂蔵の屋敷になだれ込んだ。

しかし、屋敷には桂蔵はおろか人っ子一人いなかった。実は直前に普段から桂

蔵と懇意にしている炭屋の喜太治が襲撃を事前に聞きつけ通報したのだ。

一揆衆は桂蔵は間道を抜けるに相違ないと思い、播磨との境に近い碁石谷村に

急いだ。こうこうと照る月明りは白い道を照らしている。碁石谷は奥に行くほ

ど狭くなっており、一本道である。一揆衆は声を殺して谷の奥へ急いだ。

ほどなく渓谷の奥まった所に来た時、草むらの中に行脚僧が二人倒れていた。

すでにこと切れていた。「皆の衆、桂蔵めは近いぞ」と頭目が言った。

はたして前方に桂蔵親子の姿が月光に浮かび上がった。「マテ~」

と頭目が叫びみるみる追いつくと親子を取り囲んだ。桂蔵は抜刀して

必死に抵抗したが多勢に無勢、そのうち娘は竹槍で眼を突かれて悲鳴を

あげながら地面を転げまわっている。桂蔵も竹槍、鉈、鎌などで惨殺された。

行脚僧は恐らく桂蔵が行先がばれるのを恐れて切り殺したと思われる。

桂蔵は臨終に際して「この怨みは火で晴らしてやる」と言って息を引き取っ

たという。その後、何年かして森石村に大火が起こり村のほとんどが焼失

したが炭屋喜太治宅だけが焼失を免れた。しかし、禍はそれだけにとどまらず

大字である美津石村全体に眼病が流行した。誰言うとなく桂蔵の祟りだと恐れた

村人は一時の怒りで殺人をしたことを悔いて村の西の山麓に祠を建てて桂蔵の

霊を弔った。ほどなくして眼病は終息に向かったという。

今でも殺害現場である碁石奥の渓谷に桂蔵墓と称する祠があり、亦、二人の哀

れな行脚僧の墓が池の中にある。冒頭の画像は森石にある高田桂蔵の祠