後山・平家谷と姫蛍の里 ~平家谷後山編~ | どんぶらこのぶろぐ

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11/28(日)は、「かんきょう会議浮城」主催の

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~ みはらの身近な自然を知ろう! ~


里山の自然と歴史探訪


広島県三原市中之町


   後山・平家谷と姫蛍の里 





≪平家谷後山≫河野強著 から抜粋


後山は、山中村、現在中之町、

上組大谷橋から南へ、常永地区から奥へ

さらに右手の枝谷の奥で、ひっそりとした集落である。


山を越えると、糸崎町、

東の山を越えると、木原町、

さらに峰伝いに東に行けば鳴滝山へも通じている。


谷幅が狭く、谷の中央を小川が流れ、

水量がかなりあり、

水田も六町ほ、畑はそれを越す耕地がある。


その昔、平家の落人によって拓かれた集落と

伝えられ、平家伝説を持つ集落である。


御調郡誌にも、

「後谷は別に一区をなし、

昔時平家の落人の来たり住みせしものという」と書かれている。


糸崎、鈴ヶ峰の後ろの谷ということで、

後谷となったのであろう。


明治37年3月、後山由緒調査書によると、

元歴元年(1184)一之谷合戦で敗れ、

更に文治元年(1185)2月屋島壇ノ浦合戦で敗北し、

源氏の厳しい追手を逃れ、

建久2年(1191)この地に隠れ住み、

此の谷を開墾して自給自足の生活をしていて、

外部の者に長く知られなかった様子が書かれている。


糸崎から山越で此の地に這いったらしく、

後山の峰を境に糸崎谷の方を

「里平」と呼んで字名として残っている。


最初7軒位だったらしいが、

分家に分家をしてかなりの人が住んでいたらしく、

狭い谷間に軒を連ねて家があったが、

度々の大火で生活に困り

他の地へ移住したと口伝えがある。


古文書の中に、文化12年(1815)亥の年、

居宅出火し持っていた武器を多く消失したと

書かれている。


明治の終わり頃、

23戸の家があったが、

社会生活の変化や交通の不便、

更に野猪の被害も加わり

後山を離れて外へ居を移す人が多くなり、

糸崎、向島、岩子島、深などにへ

移転した人の他は大半は、

[常長、重、才原、竹間]へ居を構え、

組の付き合いは、離れていない。


現在、後山集落としての村の付き合いを

しているのは、19戸(平成6年)である。



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ここからは、河野強さんのお話音譜


地図中の

●は、平成7年の人家 13軒。

 今は、1軒が残っているのみ。


後山公民館には、

昭和41年の水害で流された

西福寺(阿弥陀堂 真言宗 山伏がいた)の

仏像が安置されている。



昭和3年に電灯がついたが、

昭和46年新幹線の備後トンネルができたため、

水がこなくなり、

住むことができなくなり、

昭和48年河野さんも、この地を離れたそうです。


今は、こんなにさびれてしまい、

いまだに、夜、夢に見るが、

昔の話をするのは、つらいと話されました。






平家八幡神社の話は、また明日。





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