今日は
来月行われる高等部の卒業式の祝辞をなんとか仕上げ、ホッとしております

その次の小・中学部の卒業式の祝辞はもうちょっと迫ってきてからがんばろぉっと

あとは手話だなぁ……

がんばろっ‼️
PTA会長としての最後の大役。
(入学式は座ってるだけだもんね)
挨拶や作文は嫌だったけれど、それ以外は楽しいこともいっぱいだったし、学ぶこともいっぱいだった

この前のPTAの理事会のあとの講演でも、とてもステキなお話を聞くことができた。
そのひとつが
「聴く」ということについて

①「聴」
耳
「+」(プラス)
「目」(横向きになってる)と
「心」
目と心をプラスして聴く
②「聴」
耳
「十四 」の 「心」で聴く
きっと知ってる人はたくさんいるのだと思うけれど……

ホンマそうやなぁ~
って思いながら聴かせてもらった

同じ聴覚障がいを持つお母さんである講師の方の経験談の中で
食事を先に終えたお母さんが、子どもが食べ終わるのを待ちきれず、片付けを始めたところ
「おかわりして」
「おかわりして」
と何度もお母さんに頼んだ。
でもお母さんはもうおなかがいっぱいで、おかわりなんて……
でも
お子さんはお母さんに「おかわり」をして
欲しかったのではなく、そばに座っていて欲しかっただけ

そぉなんですよね。
そのことばをそのまんま受け取ると、気持ちに大きなズレが生じます

子どもはそばにいて欲しい

お母さんはおなかいっぱいだからおかわりできない

↑「おかわりして」のことばをそのまんま受け止めた場合、会話がなりたちません。
これは
聞こえてる、聞こえていないに関わらずおこりうること。
表現することばを知らなくて、違う表現になる場合と
気持ちを出してはいけないと思って、違う表現をしてしまう場合と。
特に、聞こえにくい"おじょう"とは小さい頃はこんなすれ違いバトルを繰り返してきたなぁ。
でもね
その講座でも言ってくれたけど
10年前の自分に声をかけるとしたら……
その先生は
「大丈夫」
って声をかけると話してくれた。
そして多分10年たっても、今の自分にまた同じく「大丈夫」って声をかけるだろうと…… だから「大丈夫」なんだと
話してくれた。
わたしもきっと「大丈夫だよ」って、あの頃("おじょう"0歳~10歳頃まで)の自分に
声をかけるだろうけれど、
あの時やってきたことは変わらないだろう。
「あの頃に戻りたい」なんて全然おもわない。
あれ以上もできないし、あれ以下もできない。
あのとき頑張ったから今がある。
ただ、そう思うのです。
だからと言ってすばらしい親だったということではなく、逆に子どもたちにはたくさんのインナーチャイルドを作る原因となってきたと思う。
(いっぱい泣かせたもんね)
それでも
本当に必死だったから
あれ以上も
あれ以下も
考えられない。
そんな気がする。
「今」ある形がきっと全てなんだと思うのでした。
その「今」が先の「今」
を作っていく。
ろう学校でお世話になって15年。
あっと言う間だったなぁ~

心の声が聴こえるように
たのしんでいきまあす

たくさんの気づきに
ありがとうございます
