ひとりぼっち池 | ただいま、おかえり

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山田花畑の番外編

M子さんは、小学校低学年の時のお母さんとの会話を、思い出した。
まだヨチヨチだった妹は、お金がないという理由で、お母さんの手作りの洋服をいつも着ていた。
多くは淡いピンク色の、女の子らしい色合いだった。

「うーん、お前は色が白いから本当にピンクが似合って可愛いね」
と妹は抱きしめられていた。
M子さんの心の中では、何か炎のようなものが、メラメラと燃え上がって、こんな言葉が出た。
「私もピンクの洋服が欲しい、どうして A 美ばかり可愛がるの?」

「お前は色が黒いから、ピンクは似合わないの!
可愛がって欲しいだって?あんた、憎たらしいでしょ」



他愛もない会話だが、
「あんたは憎たらしい」
この母親の言葉を、何十年も思い出すことができなかった。

憎たらしいと言われた時、M子さんは心の隅っこにある、薄暗い ”ひとりぼっち池” にボチャンと落ちた。

身も、心も凍るような、冷たい池だった。

多分それからだろう。
自分の存在を、誰からも可愛がられないものという大前提のもとに、人生が始まった。


人としての始まりは、大事に抱きしめられ、頬刷りされ、ぬくもりを与えられ、言葉をかけられること。
これは、普通に欲して良いことだ。
しかし、中には味わうことなく大きくなる子もいる。

植物が花を咲かせるに、必須の条件があるように、人にも人として健全に成長するために必須の条件がある。
ここにいても良いと自覚できる、存在の肯定。
生まれてきてよかったと思える、愛情の実感。

この二つがあれば、人は幸せに生きて行ける。

人は、自身の存在を肯定できない時、”ひとりぼっち池” にボチャンと落ちる。
助けを求めても良いのに、落ちたのは自分が悪いとどこかで思う。
心身冷え切っているのに、温かさを求めるのは贅沢だと、自分にムチを打つ。

そして、少し離れたところから自分の惨めな姿を見て、辟易とする。
そんな姿は 2 度と見たくないと思うけれど、何度も見て不幸を確認してしまう。
そして、やっぱり自分は不幸だと、妙な納得をし、自分を諦める。

これが、心を病むプロセスだ。

人と深いつながりを持った経験のない人は、人とつながることにためらいを感じる。
ためらいながらも、本当は繋がってみたい。
繋がって、仲良くなってみたい。

どうせ大事にされない、などと思う必要はない。
正直に試してみれば良い。

はじめの一歩は、池の中で凍りついている自分を、しっかり抱きしめて、温めてみることだ。
親に愛されなかった自分を、誰よりもしっかり愛することに目覚めることだ。
自分に愛情を注いで良いという、自覚に立ってみることだ。

そんな健気な気持ちを、はねのける人などいない。
きっとうまく、繋がってゆけるようになる。

絶対に、自分を諦めちゃダメだ。