ざっきっ | ゆうきの話

ざっきっ

けっこうすずしい

だいぶ涼しくなってきた。

紅葉を見に行こうよう、などと言うにはまだ早いけど、秋の味覚を食べたいよう、とはすでに毎日言っても良い時期になっている。

私の食事はカップめんと決まっているので、秋の味覚を取り入れたカップめんが出れば食べる事も出来るかもしれない。

家でのガスの使用は制限されていてほぼ使用できない状態なので、事実上自力での調理は困難であり、かと言って毎日弁当と言うのはコストが掛かりすぎる、その為、必然的にカップめんと言う結論に達する。

ちなみにお湯はポットで沸かす。

ホットプレートがあれば、もう少し調理が出来るので、そのうち何とかしようとは思っている。

味覚の秋がやってくる。



ニュース

大ニュースがあれば、ツイッターで流れてくるだろうから、最近ではニュースはほとんど見ない。

テレビだけではなくネットでも。

そもそもニュースと言っても、大部分はどうでも良いような事ばかりだ。

そのような物を見すぎると、ただでさえ処理能力の少ない脳を余計な事に使ってしまう事なる。

気が向いた時にチラッと見るだけで十分だ。

ツイッターも30弱のアカウントをフォローした時点でタイムラインが一杯になってきたので、それ以上のフォローはしていない。

完全に情報を絶つ必要もないが、多すぎる情報は利よりも害の方が大きい。

私は「ニュースサイトを見だすとずっと見続けてしまう病」なので、近頃では少し抑えるようにしている。




次の絵を考える

いきなり飛躍する事は出来ないから、今までの延長線上に次の絵があると考えるのが正解か。

そして、今は絵のバージョンアップが出来ないか考えている。

今までに描いた絵のバージョンアップだ。

過去に描いた絵を今見ると、ここを直したい、と言う所ががほとんど全ての絵にある。

アプリケーションは何度もバージョンアップを重ねるのが普通だが、絵に関してもそれを行っても良いのではないか。

例えばモナリザはダビンチが一生掛けてバージョンアップを続けたと言う事も出来、絵をバージョンアップさせる事は決して特殊な事では無い。

デジタルの大きな利点は、その様な行為が簡単に出来る事にある。

新規の絵と共に、絵のバージョンアップも行っていこう。



音楽を聴こう

BGM : Maurizio Pollini - Chopin: Piano Sonata #2 In B Flat Minor, Op. 35 - 1. Grave, Doppio Movimento

BGM : Maurizio Pollini - Chopin: Piano Sonata #2 In B Flat Minor, Op. 35 - 2. Scherzo

BGM : Maurizio Pollini - Chopin: Piano Sonata #2 In B Flat Minor, Op. 35 - 3. Marche Funebre. Lento, Attacca

BGM : Maurizio Pollini - Chopin: Piano Sonata #2 In B Flat Minor, Op. 35 - 4. Finale: Presto


ショパンは良い。


BGM : Andrei Gavrilov - Chopin: Etude #1 In C, Op. 10/1


練習曲は一生聞き続ける気がする。


BGM : Beethoven: Symphony #9 In D Minor, Op. 125, "Choral" - 4. Finale Allegro Assai




絵を描こう

自分が楽しい事と、他の人が楽しい事を繋げる方法を考え続けている。

考える事を止めない限り、その答えは必ず見つかる。

人間にとって時間とは永遠である。

死とは例えるならば期日の分からない締め切りであり、分からない期日ならば、自分で好き勝手に期日を設定しても誰も文句は言わない。

その期日を永遠とするだけで、人間は永遠の時間を手に入れる事ができる。

この時間は仮の時間ではあるが、実際の期日が分からない以上、自分で設定する他無い。

そして、締め切りはなるべく遅い方が良い事は確かだ。

それだけ長く楽しめる。

だから、自分で人生の締め切りを永遠と言う事に設定してしまい、あとは無限の時間を掛けてじっくり考えれば良い。

たぶん、永遠などと言う時間を掛けなくても、答えが出るか、若しくは答えを見つけることに飽きてしまうから。

どんな面倒な問題でも、3年以上考え続けられる事は、それほど多くはない。

だから、いつまでかかるか分からないと感じられる難問でも、それを今解く必要があるならば、途方も無い時間がかかるかどうかなどと言うことは気にせずに、答えを探し始めれば良い。

と言いつつも、私は20年以上考えている事は山ほどある。

まあ、問題はいくらあっても、算数ドリルが発狂したとか言う話は聞いた事が無い。

人間は算数ドリルではないけどね。

穴を掘るやつじゃない方の「ドリル」って言葉、たぶん生まれて初めて書いた。


またつまらない事を書いているな、ワシは。

こんな文章、誰得だって話だ。

まあ、未来の知性、未来の知性だけがこの文章を書く言い訳になっている。

ありがとう、未来の知性。




話し言葉で書いてみよう

今ふと思ったんだけど、このブログ記事って、とっても堅いと思うんだ。

それはたぶん「だ・である」で書いているからだろうけど、これは、それが一番簡潔に文章を表せると思っているからなんだ。

それに、誰が読んでいるか分からないから、一番無難な書き方でもあるしね。

でも、たまには、もっと柔らかい、そう、こんな感じの口語体で書くのも面白いと思うんだ。

この書き方が嫌だなぁって思った人はごめんなさい。

今はお試しで書くだけだから、すぐに戻すから、どうか許して欲しいです。

ほら、昔の人も言ってるでしょ「赦しなさい」って。

まあ、嫌なヤツはとっとと赦して心の中をスッキリした方が、ずっと幸せに過ごせると、私は思うんだ。

そんな事はどうでも良いね、私はつい話が脱線しちゃう癖があるんだよね。

昔っから話がドンドン膨らんで訳の分からないことになるなんてのは、良くある事だから、もう、しょうがないね。

話し言葉だと不思議と色々な事が思い浮かぶんだ。

やっぱり頭の中では話し言葉で考えているからなんだろうけど、やっぱり普段使い慣れた言葉って言う点が一番の理由だと思うね。

だって日常的に「パンが欲しいのである」なんて言わないでしょ?

「パンが欲しいなぁ、今日はパンのターンなんだよね」とか、こんな感じで会話って進んで行くからね。

だから、話し言葉で書くと、よりストレートな感情や考えが表れる気がするよ。

これを誰が読んでいるのか分からないけど、貴方が読んでいるのだから、貴方に向けて話しかけ続けるよ。

このブログは一方通行のメディアだから、こっちから話し続けるしかないんで、ずっと話し続けるよ。

普段も、どちらかって言うとおしゃべりな方だって言われるけど、さすがに一方的に話し続けるって事はないから、やっぱり少しはなすのとは違う感覚だけど、まあ、気にせずにいこう。

今ずっと考えているのは、絵の事なんだよ。

具体的には、どんな物を描いてやろうかって事なんだ。

やっぱりどうしたって、自分のためだけに描くって言うのには限界があるからね。

それでも構わないって言う人もいると思うけど、少しは私以外の誰かにとって意味のある、そんな絵を描きたいって、ちょっと思っちゃってね。

だから、それを実現する方法、実現する絵ってやつを、あれこれと考えているよ。

ここしばらくはしょこんの絵を描く事が多いけど、これって、私以外の人間にとって何か意味のある事なのかなって、ふと考えたんだ。

描いた絵を見てくれた人たちにとって、この絵って、何か意味があるのかなぁ、ってちょっと考えたんだ。

本当は、意味なんてものは見た人が勝手に心の中で生み出すものだから、描いた人間がそれを知る事なんで出来やしないんだけど、でも、それじゃあ描く意味が分からずじまいだからね。

もう少し広く考えると、絵を飾ることで、飾られた場所はコンテンツが増えて華やかになるから、まあ、悪い事ではないとは思うんだ。

枯れ木も山の賑わい、って言うからね。

まあ、今考えられる意味って言うのはそんな所かな。

しょこたんの絵がしょこたん自身に求められていたりするのならばそれは最高の描く意味になるんだけど、実際は私が勝手に描いているだけだからね。

そこで考えているんだ。

自分以外にも多少なりとも意味がある絵ってやつをね。

そういう意味では、私のサイトにあるフリー素材はけっこう意味があるものだと思うんだ。

そこそこの人数の訪問があるから、そこそこ意味のあるものになっているって事だからね。

つまり、フリー素材以外の絵もそんな感じにしたいんだ。

欲しいなって思われる絵を描きたいなって。

しかも、自分が描いていて楽しい方が良いんだ。

なかなか難しい問題なもんで、頭を右とか左にひねったりして考え中。

まあ、こんな事、何で書いているんだろうね、たぶん話し言葉だからかな。

くだらない会話ってヤツだよね、大抵の場合、会話の99%はこんな感じのどうでも良い感じの話で埋め尽くされていると思うよ、特に自分の場合はね。

だから、物語を書く時はるべく会話は入れないようにしているんだ。

沢山入れるとこの文章みたいになっちゃうからね。

会話ばっかりの文章って、何だかおしゃべりな人の横にいるみたいで、少し疲れるかなぁって思うんで、だからこう言う文章とか、会話を沢山入れた文章はあまり書かないんだ。

でも、会話ばっかりの文章ってけっこうあって、一定の需要があるのかもしれないね。

試しに会話ばかりの文章と言うものを書いて見るって言うのも、良いかも。

漫画は会話中心の文章に思えるけど、あれは実際には絵で説明しているから、説明中心の物語って事になると思うんだ。

だから漫画を描く時に会話はそれほど沢山書く必要はなくて、重要なのは場面の説明だから、とにかくまずは絵を上手くかけなくっちゃいけないと思うんだ。

それが今絵を描く最大の理由だからね、意味の通じる絵を描くって事が。

話し言葉はここら辺にしようかな、うん、また書くよ。


話し言葉と言っても、実際には他者が居てこその会話なので、実際にこのままの話し方になるかどうかは他者しだいと言う所はある。

でも、大体このような感じになると思う。

脳内での会話は大体こんな感じだ。




誰得問題

この問題は考えれば考えるほど難しい。

例えば、このブログは実際の所、誰がどの程度、欲しているのか。

アメブロは記事が増えるほど、広告収入が増えるのでアメブロにとっては確かに得だ。

私は書く場所が欲しかったので、私にとっても得だ。

読む人にとっては・・・・得だと信じよう。

金銭的な損得とは関係無く、単純に「おかしなものを見たり読んだり出来て楽しかった」と感じてもらえれば何よりだ。

色々な人が書くブログ記事をけっこう見ているが、大抵は健康的で楽しげな記事だ。

このブログのように、訳の分からないことをあれこれと書き散らしているブログはあまり無い。

それが求められている物の主流で無い事は何となく分かるが、中にはこう言う文章が好きだと言う人も居るかもしれない。

そんな人が1人でもいれば、その人のためだけにでも、書き続ける事には意味があり、得である。

このブログは「誰得」ではあるが、誰かの得にはなっている、と信じている。

絵に関してもたぶん同じ事が言える。

「誰得」は「誰かの得だと信じろ」という意味だ。

誰得はあなたの得で私の得だ。