雑記を書こう
背景
絵の背景は、模様や単色で塗りつぶすことが多い。
その絵に合った背景を考えるのは、なかなか大変だ。
色々試してみて、結局単色で塗りつぶすだけ、と言う事もよくある。
今日描いた絵は、色々背景を考えたが、結局最初のうちに考えた背景に落ち着いた。
デジタルで描けばいくらでもやり直しが出来るが、アナログの場合は簡単には直せないので、さらに難しくなる。
アナログの絵を背景付きで描ける人は凄い。
アナログの水彩画を思い通りに描く事は凄く難しい。
油絵はやった事が無いので見当も付かないけど、上書きが出来るので、そういう意味ではデジタルに近いかもしれない。
書き直しが出来ない絵は難しい。
本文はここまで
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ここから下は、未来の知性に向けたものなので、21世紀の人間が読んでも特に益は無いと思う。
今日も、未来の誰かに向けて何か書こう
もはや、私が生きているうちにこの文章が何らかの意味を持つことが無い事は、ほぼ間違いない。
何万年も後になって、過去のデータの一つとして何らかの研究対象となって参照される事を想定して書こう。
未来の人間、若しくはそれに似た存在は、私より遥かに進歩しているはずだ。
頭の回転も速いだろうし、様々な能力も、格段に進歩していることと思う。
しかし、過去の未発達な人間の思考や感覚を理解するのは難しいはずだ。
人間にチンパンジーの考えがよく分からないように、未来の人間にとって、今の私の考え方や感覚を理解するのは難しいと思う。
でも、幸いに私は文字を使える。
サルよりは自分の事を伝える事ができる。
この、文字の書けるサルが、未来の素晴らしい知性に向けて、この稚拙な精神を少しばかり披露しようと思う。
それによって、過去の人間の研究と理解が一層進む事を望む。
未来の知性にとっては何の問題でも無いかも知れないが、今の私には幾つかの問題がある。
私にとっては非常に難しい問題なので、それの解決方法を考え出すことは、今の所出来ていない。
未来の知性にその答えが聞けたらどんなに楽だろうとは思うが、それは叶わない事なので、今ここでは、その問題を書き記すのみとしようと思う。
最大の問題は、行為の役割を発見する術が無い事だ。
例えば、今書いている文章は、未来の知性に向けて書いているが、実際にはその行為にほとんど意味は無い。
未来の知性にとっては有益かも知れないが、私にとっては、どのような意味があるかが発見出来ていない。
しかし、書くと言う行為そのものは、言葉にならない欲望のようなもので、理由を説明は出来無いが、止める気になれない。
だから、未来の知性に向けて書くと言う口実を与える事によって、かろうじて意味を持たせようとしている。
問題は、それ以外の行為全般で、いくら考えても、ほとんどの行為に意味を発見する事も、生み出す事も、今の所出来ない。
おそらく、未来の知性にとって、このような問題は取るに足らない簡単な物かも知れないが、私にとっては、難しい問題だ。
もちろん、すべての事が無意味な訳では無い。
だが、意味がある事に意味はあるのか、と言うことが少し気にはなっている。
この思考は、恐らく私の思考の何らかの欠陥により生じている可能性が高い。
この欠陥が、修復可能な物なのか、それが気にはなるが、未来の知性にとっては、解決済みの欠陥だろう。
この欠陥が脳の物理的なものによるのか、それとも、考え方による物なのかは今の所分からない。
また、治す必要があるのか、そもそも治すとはどの様な状態にすることを言うのか、それも不明だ。
でも、一つだけ言えるのは、私の心は意味の無い行為を出来るようには作られていないと言うことだ。
難しい問題だ。
未来の世界では、人間が手で描く絵と言うモノは存在しているのだろうか。
21世紀ですら、肖像画や風景画や静物画は写真にその役割を奪われている。
今はまだ、手描きの絵に対する親しみやノスタルジーがあり、それがかろうじて絵を描く事を支えているが、それも長くは持たないと思う。
現に、私自身、自分の肖像画を描いた事は一度も無いし、風景画などもほとんど描かない。
なぜなら、写真があるからだ。
想像上の風景や人物を描く事は写真では不可能だが、それも近い将来、技術により解決すると思う。
頭に思い浮かべた物、または簡単な条件を指定してやるだけで、望みの画像を出力する装置が開発されるはずだ。
そうなったら、手で描くと言う事は無くなると思う。
今でも、CGは一部自動生成によって描かれている。
肝心の部分は人間の手で描いているが、それも次第に範囲が狭くなり、そのうち人類は絵を描く事をしなくなる筈だ。
絵は人間が描くものでは無く、機械に条件を入力して出力させる物になる。
その段階まで来ると、21世紀の人間が手で絵を描くと言う行為は、どう映るのだろうか。
おそらく、恐ろしく不毛な作業と取られるのではないだろうか。
それでも、その行為に意味があるのならば問題は無い。
例えば、昔は米を精米するのは全て手作業だったが、今ではそれと同じことを機械が行っている。
それについて、「手作業の方が優れているから手作業に戻すべきだ」と言う人間はほとんどいない。
絵についても、遠くない将来、同じ事になる可能性がある。
私が描いている絵も、未来の人間にとっては、取るに足らないモノでしか無く、そして、現代の人間にとっても、何の価値もないものであるならば、この絵には現在から未来にかけて、永遠に存在価値が無い事になる。
ならば、この行為は何の意味も無いのではないのか。
その点が少し気になった。
私が描く絵は世界に一枚しかない、そう考えるのが、現在では妥当だが、しかし少し考えてみるとそれも怪しい。
未来、様々な過去のデータを集積したデータベースが人工知能と結合すれば、今の私がどのような考えで絵を描いているのかも解析可能になり、再現も容易なはずだ。
コンピュータの中で私の精神を再現してそれに絵を描かせれば、いくらでも同じ絵が描ける。
もしかしたら、この人生も、未来のコンピュータが、21世紀の人間を再現する試みの一つに過ぎないのかもしれない。
それを知る術は無いとは思うが。
そう考えると、この文章を書いていることも、色々と考えている事も、全ては過去にあった事の再現でしかない事になり、この様子を誰かが見ていると言う事になる。
だとすれば、この文章も、私にとっての外部の知性、に読まれている可能性は高く、こちらからメッセージを送ると言う行為が無駄とは限らないと言う事になる。
これが過去の再現ならば、外部の知性によって変更を加えることも可能なはずだ。
そして、文章にしなくても、思考そのものがデータとして送られているはずだ。
文章化したほうが読みやすいとは思うが。
もし、外部に知性があり、それが私の思考を読んでいれば、あるいはこの世界への何らかの変更を提案する事によって、世界を変える事が出来るかもしれない。
ただ、この考えは、否定することも肯定する証拠も恐らく発見不可能なので、その真偽を考える事は無意味だ。
しかし、変更を提案する事による提案者自身の損害は何も無い。
もし、提案して何も起こらなくても、それはただ、今までの世界が続くだけだ。
提案が受理されれば、それはこの世界がより良いものへと変ることを意味し、それは素晴らしいことだ。
つまり、提案する事にはメリットしか無く、しない手は無いと思われる。
ここで言う提案とは、頭の中に思い浮かべる事、ただそれだけだ。
別に何かを失うわけでもないのだから、望みの世界を思い浮かべてみても、構わないと思う。
もちろんこれは、この世界の外部にこの世界のプログラムを走らせている知性が存在することが前提だが、はたして、どうなのだろうか。
試してみよう。
この文章を読んでいるであろう未来の知性は、その外部の知性とは何らかの関係があるのか、それともその様な知性は存在しないことを証明できているのか、出来る事なら聞いてみたい。
とりあえず、今日はここら辺にしておこう。
おやすみなさい、未来の知性。