とりあえず書こう | ゆうきの話

とりあえず書こう


この記事は、読む為に書くんじゃ無いので、読む必要は無い。


いや、読んではならない。


書き出す必要があるので書く。



とりあえず書く。

一言で書けば、近年稀に見る絶望感を感じている。

いや、昨日買ったCDについての話じゃない。

そうじゃなくて、私と言う存在全般についてだ。

あらゆる点から見て、どう冷静に分析しても、未来は無いとしか結論できない。

もはや努力によって解消できるレベルの問題ではない気がしてならない。

私の直感は、常に私に対して「続ける意味など無い」と言っている。

だから、色々と理屈を考えて「続ける事に意味がある」と言い返してきた。

しかし、私の理屈も、所詮は、私程度の人間が考える浅知恵なので、次第に本能的な直感が勝りつつある。

この状態を解消する必要があるのかどうかも、判断基準が無いので分からない。

はたして、私はこのまま存在する事に、何か意味が生まれるのだろうか。

人生全体が無意味だと言うのは分かっている。

でも、個々の事象において、一つ一つに意味を見出す事で、人間は生きる意味を感じる事が出来る。

しかし、すべての事に、次第に意味が見出せなくなりつつある自分がいるのだ。

これは多分、長く生きすぎて、心が漂白されて来ているんだと思う。

でも、それだけならば、ただ日常を淡々と生きれば良いのかもしれない。

でも、心の中にある、僅かな意味、僅かな夢、僅かな欲望が、私を悩ませる。

例えば、しょこたんはとても可愛いし、歌も上手いし、その内面から大好きだが、だが、それが私を悩ませる。

これって、単に苦しいだけで、本当は好きでいてはならないのではないか、と。

何かを好きになるには、エネルギーが必要だ。

それに耐えられる心が無いと、そのエネルギーに心が潰されてしまう。

そんな事が、しょこたん以外にも、色々な事柄について、感じられるようになっている。

このままでと、遠く無い将来、完全に心が壊れてしまう気がしてならない。

私の曽祖父は自殺している。

体力の衰えに絶望したためだと聞いているが、本当の事は分からない。

私にも同じ血が入っていて、精神構造も似ているのかも知れない。

もっとも、曽祖父は70過ぎまでは生きたらしいので、私もそれくらいまでは生きれれば良いと思っている。

その数値に何の根拠も意味も無いが。

この世界は、何の意味もなく生きるには辛すぎる。

人を好きにしかなれず、好かれる事が全く無い人生は、果たして生きる意味があるのだろうか。

私には、この世の全てがまぶしすぎる。

全ての物が光り輝いて見える。

そして、その分だけ、自分の暗さ、薄汚さ、無能さ、無力さが、際立って見えてしまう。

常に頭の中で、自分自身を罵り続ける人生に、これからどれくらい耐えていけば良いのか、考えただけでも気が遠くなる。

今回のこの文章では、無理にポジティブな結論は出さない。

これは自分で今の心の有り様を調べる為に書いているものだ、ただそれだけだ。

このブログにしても、私の心の中には、ほんの少しだけ、誰か読む人間がいるのでは、と言う事を期待して書いている。

そんな心が今は辛い。

数値的な解析では、アクセスはほぼ皆無である事が示されているし、直感的にも、それは正しいと感じている。

無駄な期待をして、不可能を追い求める事を、そろそろやめなくてはならないのかもしれない。

不可能とは、一言で言えば「幸せ」だ。

今の私の心には、幸せは無い。

しょこたんの事についても、大好きであるが、その心の僅かな情熱を、今の私は支えきれないかもしれない。

そして、およそ普通の人が得られるであろう幸せは、私にはことごとく得られそうも無いし、実際ほとんど無い。

「周りの声に惑わされるな、自分の心の声に従って生きろ」と言うようなことをある人が言っていた。

それは、自分の心の声が聞くに値する声を発している場合に限られる。

もしかしたら、そう言った偉人たちの言葉を、信じる事自体が間違えなのかもしれない。

自分を信じる事もできず、偉人を信じる事も出来ない。

では私は何を信じて生きていけば良いのか。

たぶん、何も無い。

何も信じる事もできず、誰からも必要とされず、自分を毎日罵りながら、そしてあらゆる事柄に何の意味も見出せない人生。

それを、これからどれくらい続けなくてはならないのだろうか。



大丈夫、これはただの心のメモだ。

前からずっと感じ続けてきている事を記しているだけだから、次の記事では、何事も無かったかのように、楽しげな記事を書いているはずだ。

ただ、その奥にどうしようもない闇がある事だけは、確かだ。


ほら、読んではならない記事だったでしょ。