学校って昔から大っ嫌いだった。
まず、小学校から考えていることに遡るが「生きる意味」ってなんなんだって思ってた。
しょうみ、お金がないと生きていけないし、そのお金を得るために働いて、お金を得ることが目標になり・・・。
「自分の夢のためにお金がいるんだ」とか「○○がほしい」とかいろいろ言う人もいると思うが、
まずはお金を得ないといけないでしょ?それが最初の目標になっているようにおもう。
つまり、資本社会に「生きる意味」なんてもんはない。
そんな中に「生きる意味」どころか「自分の意志」すらない。
自分の中で「お金がすべて」って思ってそれが「生きる意味だ」って思ったとしても、それは資本主義から生まれた産物であり、そんなものの中に意志はない。
だってそれは望んで生まれたものではないから。
そして、お金を払わないといけない学校も嫌いだったし、行ったところで上っ面だけの助け合いのなれ合いの中に「生きる意味」なんてないと思っていた。今もそう思う。
だって学校の中での助け合いって、生きるか死ぬかにかかわることはないし、ご機嫌をうかがうだけの薄っぺらいものでしょ?
好きとか嫌いとか贅沢な愚問を含んだ団体行動を強いられ、個性と言いながら、あれもダメこれもダメってどうしろと。そんな中にいればいるほど自分の考えってものは消えていくと思う。そんなものの中に「生きる意味」なんてものを見出すことはできない。
では、「生きる意味」ってものはどこにあるのか。
そんなものはわからないが、強いられて縛られ限定される資本社会にはないことは確かだ。好きか嫌いかではなく、「どうしたら生きていられるのか」といった核心に迫るような環境にいなければ「生きる意味」なんてものは見いだせないのではないか。
好き嫌いで判断するのではなく、生きるための助け合いこそが本当の助け合いなのではないか。
資本主義ではなく、もっと原始的な社会の中でしか自分の意志を100パーセント発揮し、見つめることができないのではないか。
題名にある
「何も考えずに学校に来るやつより、自分の意志で学校に行かないやつのほうが素晴らしい。」
っていうのは、自分の意志で学校に行っていないってことは、その人なりに考えがあって学校に行ってないわけであって、そういった「考える」ってことが人間の存在意義を考える第一歩になると考える。