念仏には大きく分けて二通りある。自らが自らの心を統一して、静かに仏体と一体になっていく念仏、もうひとつが、そのように心を清らかにできない者が、一生懸命に浄土に生まれることを願った念仏。この二通りに分けることができる。この場合どちらが優れているのだろうか。無論、前者であると感じるであろう。
先に述べたのは、比叡山での念仏観であり、比叡山では前者が優れてるとし、真如一体の念仏を目指す。しかし、浄土真宗における念仏は『一生懸命に浄土に生まれることを願う念仏』が優れたものと考える。なぜだろうか。
真如一体の念仏は、出来るものと出来ないものとが出てくる。前者の念仏は聖道門的念仏で、聖道門とは文字通り聖なる道で、清らかなものととらえてもらって大丈夫であろう
。 誰しもが清らかな存在ではない。ましてや、欲にまみれたこの世の中で、心を統一し仏と一体になると言うことは不可能に近いのではないだろうか。
後者の念仏は、心を統一出来なかった者の念仏で浄土門的念仏である。欲にまみれた世の中で、救われがたい我々衆生を救う念仏である。
このように考えると、どの念仏が一番優れているのか。ここに疑問を持たれたのが『法然上人』である。自ら救いを得られる者を救う念仏と、救われがたい者を救う念仏どちらが優れているのか、と。
この疑問が後に浄土教を開く起源になる。また、浄土真宗の基盤になるといえる。
めんどいからもう終わろ。
あでぅ~
うき♪